健康法師からの便り

二・二六事件の真実

投稿日:2023年2月26日 更新日:

二・二六事件とは1936年(昭和11年)2月26日から29日にかけて発生したクーデター未遂事件です。陸軍皇道派の青年将校が1483名の下士官・兵を率いて「昭和維新」を断行して国家改造を行おうと決起しましたが天皇の激怒により失敗に終わりました。

世間で誤解されていることが二つあります。。….

第一は、二・二六事件により「軍部のファシズムが強まり第二次世界大戦に向かっていった」という因果の説明です。高校の教科書などでも長年そのように記載されていました。これは故意に一部の権力者がそのように表記させ全てが二・二六事件のせいであるとの印象操作を行ったのです。真実は戦線拡大に反対する皇道派部ループが二・二六事件を契機に壊滅し、戦争推進派の統制派一色となったため、歯止めがなくなり太平洋戦争に直線的に日本が向かって行ったのです。大切なロジック抜けているのです。

当時は主として軍部内「統制派」と呼ばれるグループと「皇道派」と呼ばれるグループが存在しました。統制派は(満州や中国などの)海外を植民地化して収奪することにより日本の国力を高めるという帝国主義路線を目指すグループで、ヒットラーの「総力戦」に憧憬を抱いていました。陸軍大学を卒業した軍事エリート、高級官僚(岸信介など)、宮中(木戸幸一、閑院宮参謀長など)を中心としたグループでした。一方皇道派は正統派というべき上級将校と隊付青年将校を中心としたグループです。隊付将校とは部隊を率いる実戦部隊です。陸軍大学出身の軍事エリートは参謀となり、配下の兵を率いりません。

皇道派の首魁真崎甚三郎元大将達は「中国における戦線拡大は欧米との戦争に繋がり、やがてソ連が漁夫の利を得る」とし戦線拡大に反対し、一方安藤輝三大尉らの皇道派青年将校は困窮した国民を救う「国内改革」を求めました。つまり、皇道派の軍人は一人も「戦線拡大」や「中国侵略」を望まなかったのです。

時代背景 

国民の窮乏:東北地方は度々冷害に見舞われた。昭和の大恐慌の最中、昭和6、7、9、10年の昭和初期凶作群があった。その中でも、北海道、青森等東北部の凶作は甚だしいものであった。また、1933年(昭和8年)昭和三陸地震が起き、三陸沿岸が津波で甚大な被害を受けた。東北の村々では町役場に公然と娘を東京方面への娼婦として斡旋する張り紙が掲示されそのための係が存在した。隊付青年将校たちは部下の下士官たちを通して、国民の窮状と実体を痛感して、改革を求める機運が高まった。安藤輝三大尉は個人的には給与の三分の二は兵隊たちの救済のために使い、残りの三分の一で生活していたと証言されています。

(参考:飢饉は日本だけではありませんでした。ソ連邦においても計画通りの収穫が得られませんでした。ヨシフ・スターリンは領土下にあったウクライナの農民から農作物をすべて収奪して、ウクライナの農民は道に生えている草しか食べるもものがなく、1100万人が餓死しました。強制収容所ではこのほかに350万人が死亡しました。これをホロド・モール事件といいます。ロシアを理解するうえで参考になる史実です。)

腐敗した当時の日本社会

明治維新がフランスの様な「市民革命」の形態ではなく、天皇中心の中央集権国家、帝国主義国家としてスタートしたが、昭和期に入るとその体制の老朽化・機能不全が目立ち始め、また、特権階級、平民、財閥、労働者、大地主、小作人などの階層分化が行われつつも、困窮した国民を救済する手立てが無かった。「失業者は自然現象で、不景気が来れば当然」(井上蔵相)、「失業者に失業手当をやれば国家百年の計を誤る」(安達内相)、二大政党は財閥の利害を巡る政争に明け暮れ、国益を忘年した政治家の汚職が横行。政党・財閥の腐敗、重臣の無智、軍閥・財閥の癒着(真崎大将の例外)。満州・支那での軍部の腐敗、利権、アヘン栽培など。昭和初期の日本の状況は現在の日本と類似しています。明治元年から終戦までで77年、数戦から現在まで77年、今の日本は知らない間に「戦争に巻き込まれえる日本」になり、「新しい戦前」を迎えようとしています。

統制派の陰謀:昭和9年、人事権を握った統制派は謀議を重ね、戦線拡大に反対する皇道派真崎大将を失脚させること、皇道派青年将校に対しては決起を誘発させ、戒厳令を布いて一網打尽にすることとした。先ず、教育総監であった真崎を追放するために士官学校に辻正信大尉を転出させ、佐藤士官候補生を使い内偵させ「政府転覆の謀議あり」として軍法会議にかけた(でっち上げ)。証拠不十分で不起訴になったが、村中と磯部は停職、5人の候補生は退校処分(士官学校事件)。昭和10年に士官学校事件で規律が乱れたことを理由に真崎を更迭。荒木・真崎は予備役に入れられた。次の一手は皇道派青年将校の多い第一師団を満州に派遣することであった。青年将校を追い詰めて、決起を暴発させるかまたは満州に派遣して皆殺しにするかの選択であった。統制派は皇道派青年将校が追い詰められて事件を起こすであろう事態を想定して、それを機会に皇道派を粛正してどのような「革新」を進めるか研究、マニュアル本を作成。二・二六事件のときに大いに役立ったといわれている。

満州派遣の期日が迫り、安藤大尉も栗原中尉らの過激派を止めることができなかった。例え参加しなくても連座の罪に問われることは明白であった。安藤大尉は秩父宮から最も信頼されていた青年将校の一人であり、「改革」とは秩父宮を中核に添えた合法的な手法以外は考えられなかった。秩父宮も「国家改造」に理解を示して、兄の昭和天皇にも進言したが、頑なに拒否された。

二・二六事件が世間に誤解されている第二の事柄

第二:『雪は汚れていた』これはノンフィクション作家を標ぼうしている澤地久枝が二・二六事件を書いたものです。事件の日は白い雪がしんしんと降っていました。それは青年将校の真情を映すかのようでした。しかしこれは一部の人にとっては都合の悪いものでした。「雪は汚れて」いなくてはなりません。二・二六事件の主任検察官匂坂春平の「向坂資料」がNHKに持ち込まれたとき、NHKは資料の整理を澤口久枝に委ねました。しかし、澤口は、二・二六事件で殺害された渡辺教育総監の三女和子と昵懇の間柄で、作品上梓後に「これで渡辺さんへの義理を果たせた」と言っています。また、膨大な「勾坂資料」の仕分け人として、統制派の代弁者であった朝日新聞の高宮平太記者の流れをくむ高橋正衛にサポートさせた。そのようにして真崎甚三郎が名誉心の為に青年将校をあおり、後で冷たく切り捨てたと断罪し、「雪を汚れた」ものとした。しかしながら、勾坂検察官の後任の磯村検察官も証拠がないとして不起訴を決めたのです。しかしながら寺内陸相の強引な指示により「真崎」起訴がが決まり、真崎が投獄されている間に、戦争推進者(統制派)は盧溝橋事件を起こし、中国へと戦線を拡大した。

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