健康法師からの便り

二・二六事件に遺された現代へのメッセージ 第5章「統制派の陰謀と戦線拡大・敗戦」

投稿日:2019年2月22日 更新日:

 統制派のグループは目的達成のために執拗・緻密なる謀議を重ねて邪魔者を排除した。軍事独裁による総力戦にあこがれた永田鉄山を中心とする統制派は昭和8年には百ページに渡る『戦争指導計画書』を秘密理に作成し、その通り実行した。その内容はルーデンドルフの思想そのものであった。
 また、計画実行に当たって最大の障害は、皇道派であり、その首領の真崎であった。皇道派殲滅に向けて陰謀を重ねた。二・二六事件は青年将校が追い詰められて暴発した形だが、障害物を一気に排除しようとした、統制派の謀略でもあった。

三月事件(1931年3月 昭和6年)統制派主導、真崎阻止
 東京で騒動を起こし、混乱に乗じて軍隊を出動させて戒厳令を布き、議場に突入して浜口内閣の総辞職を要求し、軍事政権を樹立させるという計画だった。第一師団長の真崎大将がこのクーデターの計画を聞き、永田に警告し、さらに警備司令官に対して厳しい態度を取ったので、計画は崩れた。以降、統制派(戦争推進派)は真崎を戦線拡大の最大の障害と見做すようになった

満州事変19319月 昭和6年)統制派主導、荒木・真崎が沈静化

 満州事件に火付け役は関東軍の副参謀長の石原莞爾中佐、本庄司令官をツンボサジキに置き、参謀長板垣征四郎、中央の永田鉄山と組み起こした。まず、障害物である真崎を台湾に転出させ、その後柳条湖事件勃発。単なる事件でなく、統制派は敢えて拡大路線を取った。第一線においては戦線を遠慮なく拡大し政府を悩ませた。(北京を伺う勢い)

 事変を契機とし犬養内閣となり、荒木が陸軍大臣、真崎が参謀次長となり中央に入り、北京をも占領せんとする軍部を抑えて、一応の終息を見た。満州事変を早期に片づけたことが、「真崎はケシカラン」とういことになって、板垣や小磯は死ぬまでこれを言い続けたという

十月事件(1931年10月 昭和6年)統制派主導
 桜会の橋本欣五郎が首謀者になり計画、9月の満州事件勃発を受け、桜会の将校が率いる十数個中隊の兵力を動員して軍事政権の樹立を計画。事前に発覚し、橋本ら13人が逮捕。

『軍人干与非常時変勃発に対する研究』(1933年 昭和8年)統制派作成
 統制派の尉官級十数名を集め、皇道派青年将校が起こすであろう事態を予測し、それにどう対処し、それを機会に皇道派将軍を粛正して、どの様な「革新」を進めるか研究、翌年、『政治的非常事変勃発に対する対策要綱』として纏められ、二・二六事件のとき役立ったといわれる。統制派の寺内陸相は朝一番で天皇に拝謁し、「すべては真崎が悪いのです」と讒言している。

憲兵隊による「探聞事項」抜粋(真崎失脚陰謀)(1934年 昭和9年)
 「昭和九年十月以来、(中略)しばしば集合し、特に陸軍士官学校生徒を誘惑先導して、重大事件を誘惑扇動して、重大事件を惹起せしめて、真崎大将の地位を失脚せしめて、陸軍の人事を自然に有利に展開せしめんとする陰謀をなしたる事実あるも、その内容は判明せず、宴会費はことごとく中谷武世が支出」
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士官学校事件(1934年 昭和9年)
皇道派の追い落としを画策する東条は、腹心辻正信を士官学校の本科生徒隊第一中隊長に転出させた。異例の人事である。辻は第一中隊の佐藤候補生を使って内偵させ、政府転覆の謀議ありとして村中、磯部その他5人の候補生を逮捕させた。軍法会議で証拠不十分として不起訴になったが、村中と磯部は停職、5人の候補生は退校処分となった。村中たちは誣告罪で告訴したが取り上げられなかった。
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真崎甚三郎教育総監更迭(1935年 昭和10年)
 士官学校事件で陸軍の規律が乱れたことを理由に林陸相は宮中と組み真崎を更迭した。荒木真崎は予備役に入れられた。
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第一師団の満州の派遣が内定(1936年 昭和11年)二・二六事件勃発
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 青年将校の多くは第一師団に所属していた。青年将校はこれを「昭和維新」を妨げる統制派の意向と受け取った。第一師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日と決まった。渡満すれば激戦地に回され死ぬように仕向けられる。磯部達の暴発が先行すれば、連座して逮捕される。慎重派の安藤大尉も、賭けるしか道はなかった。しかし、御身心が読めず、悩んだ。

  事件は事前に漏れていた

  • 「二・二六のとき、僕は一ヶ月も前から情報をキャッチしていましたよ。今度は偉いことをやる。一千名くらいの人間が動くという情報なんです。」(『華族―昭和百年の側面史』木戸幸一内大臣)

  • 「『旧制』高校風土記』の取材で興味深い話を聞いた。今の東宮侍従黒木従遠は、当時学習院高等科の二年生だった。(中略)二・二六事件が起きる夜、黒木は級友の木戸孝純(木戸幸一内大臣の息子)から電話を受けた。『今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ』黒木は親友の巽道明を誘い、暮夜密かに寮を抜け出して市ヶ谷方面に向かった。」(『昭和は終わった』大隅秀夫)

  • 事件をいち早く知った西園寺公が、一足速く静岡県警察部長の官舎に避難

  • 事件後の軍事裁判で、真崎大将と対決した磯部浅一が入廷するや狂気の様になって「閣下、とうとう彼等の術中に陥りました。」と叫んだ。「彼らとは誰だ」と問うも、制止された。安田優の安田薫は「何か大きな力によって事件は動かされていた気がする」と語っている。

(上記の情報は『近衛上奏文と皇道派』(山口 富永)より抄出)

つまり、木戸も西園寺も事件を事前に知りながら放置していたのである。
統制派が青年将校に蹶起させて、皇道派を一挙に排除する構想と合致する。

事件が起きて皇道派を一網打尽にすれば、支那に戦線を広げ、さらに軍事政権を樹立するという統制派の計画が実現できることになる。

事件の2月26日木戸幸一内大臣秘書室長は朝6頃には小栗警視庁総監、西園寺公望の熊田秘書、近衛文麿、湯浅宮内大臣、廣幡侍従次長と対策協議し、「全力で反乱軍に鎮圧に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。軍上層部が動く前に勝負は決まっていたのだ。

宮中グループの支持を受けられなかったのが青年将校グループのミスであった。

木戸幸一内大臣達宮中グループは終始一貫して統制派と一体化して、皇道派を抑えた。戦争推進の一大功労者であった。

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真崎甚三郎逮捕(1936年 昭和11年)

 二・二六事件関与の疑いで投獄された。翌年9月の判決で無罪となった。起訴されたその日に林鉄十郎が総理大臣となった。
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軍務大臣現役武官制(1936年 昭和11年)復活
 これにより、軍部の賛成なしには組閣できなくなった。特に、皇道派排除には効力を発揮した。次田大三郎法制局長が奔走する。次田の義兄は野坂参三である。。
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盧溝橋事件(1937年7月 昭和12年)
 真崎甚三郎の逮捕を待ってましたとばかり、統制派による盧溝橋事件が勃発し、支那への進攻が始まった。
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      戦線拡大
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秩父の宮療養(1940年)

 統制派にとっての懸念は秩父の宮の存在と近衛文麿であった。第一位の皇位継承者の秩父の宮が突然病気に倒れ活動ができなくなったのは統制派にとって実に安心であった。もし、天皇に何か交代せざるを得ない事態があれば方針が変わる。結核といわれているが、実際は病名不詳で、遺族は皇族として異例の病理解剖を申請した。孝明天皇の死を考えると、何が起きても不思議ではなかった。事実、戦中に元気であられたならば、近衛文麿と組んで戦争も早く終結していたであろう。大胆な見解であるが、私の父はそう確信していた。

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尾崎秀美 逮捕(1941年10月検挙)
1940年10月から1941年3月まで、尾崎秀美の指導のもと満鉄調査部500人を動員して行った調査
  「支那抗戦力調査」
  「英米蘭の政治、経済、軍事力調査」
  「日本の経済力調査」
  「ソ連」に関する同様な調査」
総合的評価は「日本必敗」であった。
この結論が調査を命じた日本陸軍の不興を買い、尾崎検挙を端緒とする調査部の中枢スタッフ50人が憲兵によって検挙投獄され、10名はペストで死んだ。

尾崎秀美逮捕に関連し、近衛内閣は倒れる。反戦を望む近衛は後継を東久邇宮を推薦するも、木戸幸一の強引な人事により東条内閣が発足した。
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東条内閣成立、軍事政権が成立した(1941年10月)
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日米開戦(1941年12月)     
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近衛上奏文(1945年2月) 

 木戸幸一は上奏に関わった人を逮捕させる

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      敗 戦 

結論

  1. 2.26事件は統制派の誘導により引き起こされた。

  2. 統制派と宮廷派はスクラムを組んで皇道派を排除した。

  3. その背後にある『失敗の本質』の本質は、教育の劣化であった。

    • 明治国家体制に欠陥があった

    • 本当の人材が育っていなかった。

    • 真崎甚三郎は教育総監のとき、軍事教育一辺倒のカリキュラムを改定した

  4. 統制派は国内的には策略により戦争拡大には成功したが、その戦略そのものが荒唐無稽な愚かな妄想であった。国際的には、ソ連の策略に陥った。日本型人材は、内向きで、内部への謀略や権力闘争には長けているが、未来への戦略、世界戦略には弱く、リーダーとしての国際基準を満たしていないことがいい例だ。現代でも同様である。

  5. 国家が皇道派を活用できなかったのが大きな失敗であった。側近政治の弊害であり、情報が天皇に届かず、結局は政治利用された。

安藤 輝三大尉
甥 安藤 徳彰


 

 

二・二六事件に遺された現代へのメッセージ

~ 目次 ~

「はじめに」

第1章「青年将校 安藤輝三大尉と岐阜」

第2章「歪められる近現代史」

第3章「昭和前期における国民の窮状と権力者の腐敗」

第4章「日本社会改革の5つの選択」

第5章「統制派の陰謀と戦線拡大・敗戦」

第6章「明治日本で成立した国家体制とその欠陥」

第7章「秩父宮と安藤輝三大尉」

第8章「現代へのメッセージ」

「おわりに」

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