健康法師からの便り

二・二六事件に遺された現代へのメッセージ 第2章「歪められる近現代史」

投稿日:2019年2月22日 更新日:

隠された戦争責任

二・二六事件勃発より八十有余年経過し、昭和が終わり、平成が終わろうとして、事件関係者や遺族は亡くなり、記憶の彼方に事件が埋没しようとしている。  

しかし、二・二六事件は単なる事件にあらずして、国民の困窮という社会矛盾を克服して改革しようとする勢力と侵略戦争により国家的な繁栄を築こうとする勢力の衝突がもたらしたものであり、その正しい歴史評価がなされないと後世に対する教訓と学びにはならない。人は過ちを繰り返す。事件に対する社会の正しい理解がなければ私たちは何も学ばず、過ちを繰り返す。戦前・戦中回帰、国家権力の増大が進む最中、我々日本人は、立ち止まってもう一度考えなくてはならない。

日本を戦争・敗戦に追い込んだ勢力、いわゆる統制派(幕僚・新官僚達)は戦後ほとんどが処罰されることなく、そのまま日本の中枢部にのぼり、あるものは首相になり、あるものは高級官僚、国会議員などになった。それは、共産主義の台頭から日本を守るための米国側の妥協の産物ではあったが、それは戦争責任を曖昧にし、戦後の日本に病根を残した。

近年における戦中・戦前回帰志向の高まりも、その精神的・肉体的DNAの継承者たちのなせる技と思われる。「日本は正義の戦争をした」、「南京大虐殺はでっち上げだ」、「慰安婦は自ら志願した売春婦だ」等の偏った認識を持つ歴史改竄(修正)主義の自称愛国者が多く、この様な日本人の狭隘な愛国主義と歴史認識が中国や韓国等との緊張関係を作り出すのであって、国防の観点からも好ましくない状況だ。

戦後生き延びた戦争推進者達やその末裔は戦後の教育で自分達やその先祖が犯した戦争犯罪を国民が学び、批判的になることが不都合だった。であるから、例えば、文部省の方針で「近現代史を学ばせない」ということにもなった(故町村信孝文部大臣が外国人の若者とのテレビ討論会で何故日本の若者は近現代史を知らないのかという質問を受け、「政府・文部省の方針

であると説明した。ちなみに町村信孝や高村正彦の父親は元特高幹部で、町村信孝の父金五は戦前思想弾圧を指揮した最高幹部で「戦後の民主化がインチキだ

と示す人物であった。特高出身で政治家など戦後日本の中枢に上り詰めた人物は無数なのだ。

余談

以下は東北大学医学部 加齢医学研究所所長(当時)の川島隆太という医者が『全学教育広報』の巻頭言に載せている話です。

「十数年前、名前は伏すが、偶然、一人の旧帝国大学名誉教授と懇談する機会を得た。その方は、戦後、GHQと共に日本の新しい教育システムを構築することに携わってきたと言っていた。そして、『私たちが目指した我が国の教育の目標は90%の国民が物言わぬ羊となることである。それが治安の観点からは一番安定性にすぐれ、経済の観点からは最も効率が良い社会を創ることに繋がる。見たまえ、私たちの壮大な社会実験は見事に成功を収めた。』と、わが耳を疑う言葉を吐いた。

 

上記は「国民愚民化政策」が政府の意志によって行われてきたことの査証である。自分達や或いは父や祖父が戦前・戦中に行ってきたことを批判されては困るのだ。その結果、「日本の若者が、中国・韓国の若者と比べ、英語もできず、何も考えていない、とは、三ヶ国を知っている外国人からよく聞く。

昨年9月の総裁選で安倍晋三の対抗馬となった石破茂の逸話を話そう。自民党の石破茂が防衛庁長官だった頃、シンガポールのリー・クアン元首相とじっくり話す機会があった。そのとき「君は日本が太平洋戦争中にシンガポールに何をしたか知っているか?」と問われ、上手く答えられないと、「だからダメなんだよ。よく勉強しなさい。」と叱られたという。石破氏は多いに反省したという。ここが、安倍晋三と石破茂の差となる。

少し説明すると、日本軍の占領下、華僑が広場に集められて入口を塞がれた。リー・クアンはおかしいと思い、「忘れ物を取りに行く」と言ってその場を逃れた。実は、そこで華僑は惨殺されたのだ。殺す役は不幸にして選ばれた華僑自身。計画では5万人を殺す予定だったがその半分ぐらいは惨殺したという。これは、シンガポールだけの話ではない。私がアメリカに留学していたとき、アジアの留学生と親しくなったが、肉親が日本軍に惨殺された人達もいた。歴史認識が出来ない日本人を「尊敬出来ない」と穏やかに表現するが、心の中では怒りを秘めている。シンガポールでは、we forgive,but we do not forget. と言っている。今後の外交上も歴史認識問題は障害となって横たわる。

反面西ドイツでは「ヴァイツゼッガー大統領の演説」で代表されるように、真摯な態度で戦争の禊を行っている。子どもたちは歴史の授業の中で、語り部たちから戦争や戦争犯罪について学ぶ。もちろん、憲法についても学ぶ。戦中・戦前と決別することで、当事者国と友好関係を保てるのだ。ドイツのメルケル首相もロシアで開催された戦勝国記念パレードで「連合国は我々をナチスから解放してくれた」と演説している。

日本における歴史改竄(修正)主義は、中国や韓国との関係を悪化させる主要因であり、日本の国防にも多大な悪影響を与えている。不勉強が狭隘な偏見に満ちたプライドにつながる。世界に尊敬される日本人にならなくてはいけないのに、百田尚樹の『日本国紀』などを読んで、安易な自己満足に陥っている。

問われない戦争責任と日本の戦中・戦前回帰

戦争推進派が目指した全体主義下では、人間は絶えず非人間化され、倫理性も失われていく。全体主義を採用した体制は何れも大量の人を虐殺している。ヒットラー、スターリン、ポルポト等皆同様である。日本も例外ではない。大東亜戦争時の南京大虐殺は知られているが各地で殺戮は行われた。戦争推進派(統制派)の先鋒辻正信は戦後戦犯を免れて国会議員になった。復帰後彼は「作戦の神様」とか言われて英雄視されたものだ。なんと国民は浅ましいことか。彼は『三光作戦』と称し「奪い尽くせ、殺し尽くせ、焼き尽くせ」の作戦を中国に広めた。二・二六の安田優少尉の兄は、左翼運動のあと関東軍の特務機関に勤務し、投宿した宿の窓から、川一面に『三光作戦』で殺された人の遺体を見たという。中華民国の戦争被害は一千万から二千万人と言われている。フイリッピンでは50万から100万人が被害に合っている。アジアで各地に被害者は存在する。大東亜共栄圏など全くの欺瞞で、単なる侵略戦争であった。

A級戦犯から転じて総理大臣になった岸信介について述べてみよう。満州の三スケといわれる岸信介、松岡洋石、鮎川義助はいずれも長州出身で姻戚関係である。松岡洋右は外相として日ソ不可侵条約を結んだことが有名だ。これは日本の歴史上最悪の条約であった。岸は満州の利権を総括する立場にあった。「満州は私の作品」と豪語していた。岸ら関東軍の官僚たちは中国や朝鮮半島で莫大な量の阿片を栽培させ、業者を満州国の管理下に置き、巨額の資金を賄った。同時に大金を不正蓄財した。当時世界に出回る阿片の9割が“日本製”であった。これだけでも「ハーグ国際阿片条約」違反で、重大な犯罪行為であった。岸はこの裏金を日本に持ち帰ったと言われている。特務機関の児玉誉士夫も、軍用機に裏金を載せて日本に持ち帰り、戦後日本の裏社会の「ドン」となった。岸信介は東条内閣時の商工大臣として「日米開戦」、「真珠湾攻撃」の遂行にも深く関与。A級戦犯として処刑される可能性が非常に高かった人物だ。

戦後日本の中枢に上り詰めた戦争推進者(統制派)は岸信介だけではない。日本の中枢を支配する人たちやその流れを汲む人たちは、自分たちの所業が知れ渡るのを恐れた。戦犯組織が権力を持つ国が侵略を反省できる訳がない。最も戦争責任があると思われた木戸幸一内大臣は戦後を生き延び87歳まで命を全うした。

懸念されることは、戦争体験者が死亡した今、戦前・戦中の体制に回帰しようとする動きが日本で加速してきていることだ。国家権力は着実に増大し、権力による官僚、警察・検察、マスコミの支配、国民監視が強化され、身内優遇や大企業、既存権益者優遇等が看過できない状況である。つまり、昭和初期の社会状況に類似してきた。大衆社会は大衆が無定見の場合、全体主義の温床になることはヒットラーや戦前の日本の事例でも明らかなことだ。

昭和初期には、国家が劣化し、庶民、特に日本の兵の供給源である農村は疲弊し、それでも戦費のために税金は取り立てられた。青年将校は足元の兵隊の窮状を実感し、苦悩した。この様な時代を繰り返してはいけないのだ。国民主権は一度手放したら、取り戻すことは容易ではない。

二・二六事件における歪められた史実

戦後の日本の教育方針により、戦中・戦後の近現代史を学ぶことがなく、戦争の原因と実態と責任について日本人が向き合うことがなかったが、日本の運命の分かれ道となった二・二六事件の評価についても同様のことがいえる。

先ずは、小説家有馬頼義(よりちか 父は戦犯として拘禁された元農相・伯爵)は「ただの人殺しか、強盗、強姦の類」と言い、週間新潮で多くに紙数を残忍な殺し方の紹介に費やしている。渡辺大将の三女和子の話もここに載せられている。これは事件全体の否定である。

皇道派の首魁と見做される真崎甚三郎元大将についてはどうであろうか。昭和史研究家の山口富永氏は『二・二六事件の偽史を撃つ』の前書きに次の様に記している。

「それは次の様な結論である。二・二六事件の真因と、日本のやったあの仕掛け人ら、すなわち、

『永田(統制派)→2・26後の皇道派粛軍人事→戦争』のこの図式から必死に逃れて、

『真崎(皇道派)→2・26事件→戦争』をこの昭和史の上に定着させ決定づけさせようともがいている一団、乃至、その亜流が、いまも潜在力を持ってこの世にいる。これらのものにとっては、どうしても、皇道派の真崎甚三郎をすべての元凶巨魁として叩き続けなければ、自らを正当化するための辻褄が合わぬ。」戦後二・二六に関する書籍はこれら統制派の観点から書かれたものが横溢して、事件が歪められた。社会主義的傾向を持つ作家ですら、戦争推進者が作り上げた真崎像の立場から事件を書いている。そのため皇道派の首領である真崎甚三郎元大将は狡猾で青年将校を自己の野心のために煽って、事件失敗となると、冷酷に切り捨てた『悪役』として定着した。また、二・二六事件がその後の軍部暴走の発起点になったという印象操作が行われた。

澤地久枝の『雪は汚れていた』もその結局はその事例といえる。ノンフィクション作家を標榜しているが、都合の良い部分だけを偏見でパッチワークの様につなぎ合わせてストリーを作っている。実は澤地は二・二六事件によって殺害された渡辺教育総監の三女和子を「お姉さま」と呼び、の仲であり、深い友情によって結ばれていた。作品上梓後「私はこれで二・二六から足を洗うつもりでいる。渡辺さんにも義理が果たせたからー」と親しい人に言った。確かに幼い三女の和子にとっては目の前で父親が惨殺されたのは気の毒に絶えない出来事だ。しかし、数百万の命が失われた大東亜戦争に何故進んだかという歴史の評価の目を曇らせてはならないのだ。澤地久枝はその経歴から軍全体を悪と見做した立場だが、結果として二・二六事件に同情的な軍の首脳部を巨悪として断罪し、その背後で策略を巡らせた戦争推進者(統制派)のことを見えなくさせているし、国内改革による国民救済の視点も無く、社会派ノンフィクション作家といえるのか。

二・二六事件軍法会議の主任検察官勾坂春平の手元ににあった「勾坂資料が戦後NHKに持ち込まれたとき、NHKは資料の整理を澤地に委ねた。同時に膨大な勾坂資料の仕分け人として高橋正衛に澤地のサポートを頼んだ。高橋正衛は『二・二六事件』の著者であり、真崎主謀説の立場を取る人物で、戦中・戦前朝日新聞の記者として統制派の代弁者であった高宮太平記者の流れを汲む作家である。高橋正衛は自分の手持ちノート三冊を澤地に貸し与えて手取り足取り指導した。予め真崎に強い憎しみと偏見を持つ澤地と、真崎主犯・陰謀説を唱える高橋正衛の組み合わせでは、どのような結果を産むかは一目瞭然であり、これはNHKの作為だろうか。(ちなみに今話題の歴史改竄主義者の作家百田尚樹もNHKの経営委員である。百田尚樹の『日本国紀』は安倍首相一押である。NHKは公共放送であるよりも、準国営放送の性格を強めている。)

これには後日談がある。NHKの放映を機会に事件の関係者と交流のあった元大尉久松太平の立ち合いの下、真崎甚三郎元大将に詳しい昭和史研究家山口富永(ひさなが)が高橋正衛氏と対決した。「結論は簡単であった。あっけなく決まった。巌流島における宮本武蔵と佐々木巌流の対決の様に。高橋は、真崎組閣説は事実でない、誤ります、と言った。」(久松太平が現代史懇談会の『史』の中に記載)しかし、後日葉書で、「一度書いたものは直せない」と山口富永に伝えたそうだ。

元々勾坂資料は軍法会議議長寺内陸相の意向を汲んで真崎を有罪にすべく集められたが、真崎陰謀説の根拠とされている証拠について検証したい。

「とうとうやったか」

事件当日陸相官邸前で真崎対象が「とうとうやったか、お前たちのこころはヨオックわかっとるわかっとる」と二度まで言ったという説について、当時の憲兵伍長で、真崎の護衛を命ぜられて、近くに常にいた金子桂氏が「あのとき、真崎大将はそんなことは言わなかった。『馬鹿もの何ということをしたのか。早く陸軍大臣に会わせろ』と言った。」と証言した。しかし、この内容は上司に報告されたが、採用されなかった。

胸の旭日大勲章

 ②「事件当日真崎大将の胸には勲一等旭日大勲章がされていた」

真崎軍事政権樹立の野心のシンボルとして言われているが、実際は勲一等の副賞である勲二等旭日章であり、当日は相沢事件のための軍事参議会議出席のため佩用したものであり、勲章の佩用規定に従ったまでのことである。

『大臣告示』の時間が早く(十時五十分)事前に用意されていた、

 ③事件は早朝に起きており、皇軍相打つのを避けるため迅速な行動が必要であり、不自然はなく、天皇の激高により軍首脳は狼狽した様子は見える。

勾坂検察官も初案は不起訴、後任の磯村検察官も不起訴、

 上記の澤地達が決定的証拠として上げているものも、根拠はなく、勾坂検察官の得た結論は「真崎不起訴」であった。しかし、戦争推進派である幕僚らの勢力を背後にした寺内陸相の強引な指示により「真崎起訴

が決まり一年三ヶ月投獄された。その間、戦争推進者(統制派)は待ってましたとばかりに盧溝橋事件を引き起こし、中国へと戦線を拡大した。後日真崎が無罪の判決を得たのは寺内の後任として裁判長になった磯村大将が「真崎にやましいとする証拠がどうしてもあがらなかった」との理由で無罪としたからである。

東京軍事裁判:「当該事件の関係者には非ざりしなり」

 東京軍事裁判の真崎担当のロビンソン検事(ハーバード大学出身の法学博士)のメモランダムには次のことが記してある。「…されど証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或いはスケープゴートにされたるものにして、当該事件の関係者には非ざりしなり」

 澤地は勾坂資料によってこれらを覆すような新しい情報を得てはいない。何故に、「雪は汚れていた」のであろうか。

 戦争推進派(統制派)は戦線拡大のための障害になる皇道派上級将校(主として真崎)と青年将校達を一網打尽にすべく、真崎らに対して流言飛語、天皇に対しての讒言、士官学校事件の如く、陰謀・策略による更迭を試みた。皇道派青年将校達に対しては、当初は手先として利用使用と試みたが、理念が合わず失敗すると、逆に青年将校達を蹶起に駆り立て、これによる反対派の一網打尽の試みたのであり、澤地が糾弾すべき「巨悪」は、背後にいた戦争推進者達であるべきである。つまり、陸大出の幕僚エリートや帝国大学出身の新官僚等で形成された統制派である。

 高校の教科書などの扱いは、二・二六事件を述べ、「以降軍の発言力が高まり、太平洋戦争に突入した」などの短絡的な表現と理解にとどまり、因果関係までに言及しない。あたかも、二・二六事件が太平洋戦争の引き金になったとの文脈である。神奈川湯河原に牧野伯爵の別荘「光風荘」がある。命は取り止めたが、伯爵は二・二六事件によって襲われた。静岡新聞であると思うが「20世紀遺跡」というコラムがある。栗原俊雄というコラムニストは「青年将校は加害者だ。彼らと被害者たちの写真が両方掲げられていることには驚いた」と記し、「前代未聞の不祥事を起こした陸軍だが、事件後は焼け太りの様に発言力を増し、戦争へとつながってゆく」と結んでいる。尾崎秀美事件で戦争回避の近衛内閣を崩壊させ、無理やり東条軍事内閣を成立させたのは、戦争推進派(統制派)と組んだ木戸幸一内大臣であり、それを許可したのは昭和天皇であった。以下この話に追加しておこう。

 皇道派真崎大将が二・二六事件関与の嫌疑で投獄されている間、支那事変が起き、その一月後に真崎大将の弟の勝次が牧野伸顕内大臣を通して陛下に上奏文を捧呈した。これは牧野内大臣の協力なくしては実現できないものであった。この天皇に対する上奏文の内容は兄の真崎甚三郎と同様の考えであった。

真崎勝次(甚三郎実弟)上奏文要旨 日支事変に関し

動機が不純不明

陸軍内部及び出動部隊の実情:本事件後は、大臣以下の責任者は殆ど決意成算なく(中略)常に一部の幕僚群に引き摺られ、(中略)真に国を憂うる具眼の士は、(中略)何らかの手段をもって事態を拡大せしめざる方針なるも、何分本省並びに参謀本部の要位は陰謀群の占位する所となり、苟も反対意見を発表すれば直ちにに馘首

支那の内情観察:蒋介石崩壊するも赤色政権樹立せられ、この間列強の支援、解決は陰謀幕僚群の考える如く、簡単ならざるべし。

世界戦争の危惧:これ以上の進出を敵に余儀なくせらるるにおいては、最後はナポレオンのロシア遠征よりも困窮せる事態に陥り、全武力を消費したる際世界戦争となり、その結果は明瞭にして全く無謀の沙汰。列強の現状は日本を消耗戦に陥れ、最後に頸を絞めんとするに在り。

ハル長官の声明:決意の固さを示す。最後には満州迄も失う。

一部の国民は糊口さえ窮す

国家存亡のとき、御前会議を開き、「ハル長官」の声明に回答すべし。

(注。この御前会議の出席者欄にわざわざ「内府待遇」を入れたのは、牧野伯を列席せしむるためなり。同氏の外は全部軍閥の傀儡なり。)

 襲撃された、という事実だけでなく、もっと多きな流れが背後にあり、牧野伯は事件に対する評価は別にして、皇道派の考え方に理解を示していた。

日本の衰退

 今懸念されることは日本の戦前・戦中回帰だ。戦争体験者が生存していたころは、二度と戦争を起こすまいとの決意が国民の大半にあった。しかし近年は戦前・戦中回帰の動きが加速していることだ。

世界がグローバリゼーションとIT革命を先取りして国力を総動員している最中、日本だけが後ろに後退することを志向していれば、世界に劣後することは自明である。中国は日本の遥か先を進み、4年後に韓国の一人当たりのGNPは日本を抜くと推測されている。次の世代のうちに日本の人口は半減しアジアの小国となる。グローバリゼーションと(IT)技術革命は本来経済・産業飛躍の原動力となる。中国などは、中央集権と市場経済のハイブリッドの体制を編み出して、日本の明治維新よろしく躍進している。政府は異次元金融緩和と巨額の財政赤字、日銀の株価操作など、カンフル剤は打つが、経済不振の本質の国の体質改善はなおざりである。このことについては言いたいことは多々あるが、今は脇に置いておく。ただ一つだけ言うならば、中国や韓国ではかなり以前から来るべきグローバリゼーションやIT革命の準備がされており、教育に関していえば、1990年ごろから小学校低学年から本格的な英語教育が施されている。特に都市部では小学校1年から始めている。ITに関しても同様だ。韓国では教育はIQでなくITといわれている。日本は一つのオリンピックで金メダルを増やすことには情熱とお金を注ぐが、一人の孫正義を育成するためには何もしない。海外留学生も減る一方である。教育に関して政権が頑張ったのは、森友、加計であり、野党の今井雅人議員らの追及がなければ今頃安倍記念小学校は開校し、「教育勅語」による思想教育が行われていた。これでは国は衰退する。

安藤輝三大尉
甥 安藤徳彰


 

 

二・二六事件に遺された現代へのメッセージ

~ 目次 ~

「はじめに」

第1章「青年将校 安藤輝三大尉と岐阜」

第2章「歪められる近現代史」

第3章「昭和前期における国民の窮状と権力者の腐敗」

第4章「日本社会改革の5つの選択」

第5章「統制派の陰謀と戦線拡大・敗戦」

第6章「明治日本で成立した国家体制とその欠陥」

第7章「秩父宮と安藤輝三大尉」

第8章「現代へのメッセージ」

「おわりに」

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