「大義を明にし、人心を正さば、皇道あへて興起せざるを憂へん」(藤田東湖)
安藤氏は西美濃三人衆(稲葉、氏家、安藤)の一つで、安藤守就はもともと土岐氏に仕えていたが、信長の天下統一に貢献した。1580年信長に追放されるが、1582年本能寺の変が起こり、安藤守成も北方城を奪い再起を図るが敗北し、安藤家は滅亡した。その後備中高松城から転封してきた安藤信友が加納藩の藩主となり、陸奥国磐城平板平藩に移されても飛び地支配が行われた。
安藤輝三の祖父
安藤輝三大尉を理解するには、その父の安藤栄次郎を知らなくてはならない。そして安藤栄次郎が岐阜で受け継いだ精神的・肉体的遺伝子が、どのように安藤輝三大尉に受け継がれ、置かれた環境によって開花したのであろうか。安藤栄次郎は明治二年岐阜県揖斐にて生まれた。母や姉もいたが婚外子であった。東京の安藤家の仏壇には、「安藤栄次郎は私の実子である
との証文が大切に保管されていたが、祖母すえが亡くなったときに整理してしまい、今となっては誰が実父であるのか分からない。今から思うと残念なことである。岐阜の本家でも、今となっては分からないとのことである。従妹から聞いた話では、「殿様のご落胤」と祖母が話していたそうだが、私の父の話では、「栄次郎の父は学者の家柄で社会的立場のある人物だった
そうだ。「当時の婚姻はいい加減で、ちゃんとした婚姻をしていなかった」とも言っていた。男子一人なのに栄次郎という名前は、他に長男がいたのであろか。
国学と安藤輝三
安藤栄次郎は叔父の安藤佐兵衛の養子になっていたが、明治18年分家を願いでて戸主になる。その願いを許可したのが当時の岐阜県大野・池田郡長棚橋衡平であった。
棚橋家は代々漢学をもって名を成した。水戸天狗党が揖斐を通ったとき、双方説得し戦火を避けた逸話は有名である。このとき安藤本家には藤田小四郎が投宿し、その時貰った藤田東湖の書が今も残っている。天狗党は、国学のつながりで、棚橋衡平を頼って来たとも考えられる。安藤栄次郎は国学に対する素養もあったが、安藤輝三も国学、特に水戸学に興味があったようで、皇道派の将校達は安藤輝三の斡旋で、青山四丁目の梅窓院の一室を借り、「国学研究会」を始めた。また、安藤輝三は朱子学の見地から蜂起した大塩平八郎の乱について機会があるごとにその精神を下士官や兵に語っていた。「身を殺し、以て仁を為す」は大塩が日頃から門弟たちに説いている訓えである。二・二六事件の精神は朱子学等の知らなくて理解できない。青年将校達は、昭和初期の日本の「精神的堕落」を憂慮し、「皇権を(特権階級から)奉還して大義を明らかにすれば国の政経、文教すべてが改まる」とし、天皇ご親政による改革を願った。それが「大義を明にし、人心正さば、皇道あえて與起せざるを憂えん」(藤田東湖)の精神である。
陽明学の大塩平八郎の乱の場合は、幕府は謀反と断じ討伐したが、後に大々的な飢餓対策を打ち出し、遅まきながら救民活動を開始した。二・二六事件の場合はどうであったか。結果として戦争抵抗勢力である皇道派の壊滅により、一気に侵略戦争に傾斜し、支那事変が起きたではないか。大御心は何処に。軍事政権を導いたのは統制派とそれを支える宮中派(木戸幸一内大臣、閑の院宮等)であった。
安藤輝三と父安藤栄次郎
安藤栄次郎の分家の理由は東京に出て英学を修めたいという強い意志であった。15歳のとき分家して戸主になり、すぐに参考書を担いで、東京まで徒歩で上京する。当時は福澤諭吉の『学問のすすめ』がベストセラーで、志のあるものは上京した時代であった。栄次郎は東京に上京して神田の英語学校で学んだが、実力があったのですぐ生徒から教師に転じたという。また、安藤栄次郎は佐久間象山を生涯の師と仰ぎ尊敬していた。岐阜の揖斐で生まれ育った少年が何故英学を学ぶことができたのか。何故佐久間象山にあこがれたのか。誰から教わったのか不明である。佐久間象山は勝海舟の妹と結婚し、公武合体、横浜開港などを進言した時代変化が読める人物でもある。慶應義塾の開校にもかかわったと聞く。佐久間象山は婚外子でもあったが、そこで栄次郎は自分の境遇と重ね合わせたのかもしれない。天狗党の藤田小四郎も婚外子であった。
東京の安藤栄次郎の居宅には『学問のすすめ』の名節が大きな額装になって飾られていた。また、栄次郎は二・二六事件発生時、慶応大学の予科で英語を教え、教授と呼ばれていたが、息子が二・二六事件に連座したことにより、職を辞し、晩年は慶應中等部の教師に納まった。また、当時代表的な英語辞書の制作にも関わった。
安藤輝三は吉田松陰を尊敬し世田谷の松陰神社に足しげく通っていた。吉田松陰は佐久間象山の門下生であった。吉田松陰は渡航を試みて投獄されたが佐久間象山もそれに係った罪で投獄されている。棚橋衡平は主家の命で江戸に上がったのが1858年であるが、当時の江戸には象山が学校を開き門下生が多く存在し、棚橋衡平と交流があったとされている。そこで得た情報を国元にもたらしたのだと思われる。棚橋衡平は後に京にでて、岩倉具視らの諸公家に出入りし、維新時は岩倉鎮撫使に属して戦功をあげた。その後岐阜の北方西平の開墾、大野・池田郡長、師範学校校長、天籟塾の創設などで地元に貢献した人物で、役所に顕彰碑も建立されている郷土の名士である。また、思うところがあり、長源寺に居を構えたといわれている。
昨年安藤家の墓がある揖斐の長源寺に安藤輝三次男安藤日出雄氏達と墓参りした。代々の住職の墓の群の後ろに安藤家の墓がある。相当古い年代の墓もあったが、安藤栄次郎の実父つまり安藤輝三の祖父の名や墓は見つからない。安藤家の墓の後ろが棚橋家の墓であった。古文書をネットで調べると、1910年に棚橋衡平が77歳で死去したとき、墓の建立の相談を棚橋家と安藤四郎なる人物が行ったと記録に残る。安藤四郎は棚橋衡平の五女を娶っている。どうやら、安藤家とは若干かかわりがありそうでもある。
誰の血筋か分からぬが、祖父安藤栄次郎は学者肌の教育者であり、その子栄一(長男)も満鉄から戻り公認会計士の資格を取り、その後監査法人朝日会計社を設立し代表を務めていた。当時の最大の監査法人で、筆者が勤めた小松製作所の監査法人でもあったが、大学で教鞭も取っていた。安藤輝三大尉も、「本隊に帰順せよ
との天皇の奉勅命令が出ても、「中隊長と命をともにする」と中隊が一糸乱れぬ統率を保ったのは、安藤輝三大尉が「愛」に満ちた教育者であったからであろう。筆者は米国留学するも、気がつくと教育関連ビジネスを創立していた。祖父栄次郎の影響だろうか、教育が一番気持が落ち着くのだ。娘も教育関連の活動をしている。
安藤輝三が秩父の宮との関係を深めた一つは、秩父宮との話の中で、安藤輝三が常に学ぶ姿勢があり、自分の意見を持とうとしていたからだと思われる。それは父安藤栄次郎の知的好奇心と教育方針の影響によるものだろうか。
こんな逸話がある。大正13年安藤輝三以下2名の士官候補生が麻布の歩兵第三連隊に配属された。その軍事教官は第六中隊少尉の秩父宮親王が任命された。秩父宮はこの三人の士官候補生に対して、情熱を傾けて教育薫陶した。ある時、一般兵を帰営させたあと、秩父の宮は三人の士官候補生を一段と高い丘の上にある森の中に連れて行った。宮は草の上にドッカリあぐらをかきその周りに候補生たちを座らせた。「よおし、今日は一般教養に関するディスカッションだ。貴さまたちが日頃考えていることを述べてみよ」と。宮の予期しない質問に三人の候補生は一瞬たじろいだ。しかし安藤輝三はハイッと手を挙げた。「これからのアジアは各民族が協力して欧米列強に当たり、アジアの独立と共存共計を図るべきだと思います・・・・」(安藤)。「その具体的方策は?」(宮)。「支那大陸の統一と近代化であります。日本はまず満州の安定を先決として、打つ手は打たなくてはなりません。具体的には満州からソ連権益を駆逐し、ロシア民族の北からの侵略に対する防御線を築くことであります。そして北方の守りに万全を期す傍ら、支那本土における西欧の権益を逐次奪回してゆくことが必要であります。このままで行けば、アジアは西洋文明を伴った経済的軍事的な浸透によって、本来の伝統的な道徳文明を失い、遂には西洋化してしまうでありましょう。(中略)支那民族がこの事から目覚め日支の緊密な提携が行われない限り、西洋列強の駆逐は困難であり、日本も彼らの侵略を防ぐことができません」(安藤)。「ほう、なかなかの意見だ。宮崎トウ天の大アジア主義の影響が大分あるようだね」(宮)。「父がトウ天先生に傾斜していましたので、息子の私に影響を与えたことは多分にあります」(安藤)。「安藤、貴様の対支対策としては正論といえよう。しかし、その前に日本の足元をよく見なくてはいけない。(中略)低迷している国民精神を振起させ、腐敗した政治を刷新し、民生を安定させて、国力の充実を計ることが先決ではないか・・・・。この問題はこの二年間にじっくりと考え、一応の結論をまとめておくんだな・・・」(宮)。このことばから安藤輝三は、秩父の宮が現状を打破し、新しい社会正義と秩序と社会正義を求めんとする英傑の宮であることを感じ取った。しかし、この語り合った同じ場所で数年後に銃殺刑に処されるとは誰も知る由もなかった。
また、安藤輝三は秩父の宮との対話の中で、「最近の軍人は軍事勅諭しか読まない。狭い見識では軍人として将来道を誤るのではないか」という話がでて、大いに共感して、当時の永田軍務局長(統制派リーダー)と談判して、多額の予算を獲得して、その開催責任者となり、定期的に砂防会館や青山梅窓院で将校向けの講演会を開催した。秩父の宮が永田軍務局長と会ったとき、「あの安藤という男は楽しみですなあ」と言ったという。このことについては、一説によると、青年将校から「君側の奸」とされた鈴木貫太郎の自宅を知人の紹介で訪問したことがある。相手を知りもしないで決めつけるのは良くないと考えたからだ。安藤は対決する決心で臨んだのだが、話が盛り上がり1時間の予定が3時間に及んだ。帰る頃には、気持ちが通じ合ったと言われている。やはり、安藤輝三の純粋な気持ちが通じたのであろう。しかし、鈴木貫太郎の人物と見識に感銘し自分を恥じたのだという。この事が、「将校教育講習」開催の原動力となったともいわれている。別れ際に、安藤輝三は、「私の座右の銘といたしたく思いますので閣下に一筆揮毫を賜りたくお願いいたします」と率直に述べたという。安藤輝三は襲撃対象者に鈴木貫太郎を入れるのに最後まで反対したという。しかし、顔見知りということで、安藤輝三に襲撃の分担が回ってきた。とどめをささず命が助かったのも偶然ではないだろう。下士官による至近距離からの3発の銃弾も致命傷ではなかった。下士官は射撃の名手であった。襲撃の前に、下士官に「最も尊敬している人物」と語っていた。また、乱射して武人にふさわしくない死に方はさせるなと、兵に安全装置をつけさせたといわれている。事件後も、鈴木貫太郎は安藤輝三のことは恨んでなかった。「実に愛すべき純粋な青年将校であった」と評していた。安藤輝三叔父の遺品整理のとき、鈴木貫太郎から頂戴した色紙があった。銘は「天空海濶(かつ)」。父が「あれ、これは鈴木貫太郎の色紙だぞ!」と言ってしばらく眺めていたが、やがて、廃棄の方へ分類された。父にとっては二・二六の思い出につながるものはすべて辛いもので、忘れたいものだった。
筆者の父徳一は、「学校の成績を上げろ」とは強制しなかった。ただし、「本は読め」、「教養を身につけよ」と勧めた。それは祖父栄次郎の教育方針であった。それ以外に祖父からの「家訓」は「何でも良い。何者かにならんとして必死になれ」、「人生には必ずチャンスが三度ある。その時に実力がなければ掴むことはできない。普段から備えよ」などである。これらは父徳一が祖父栄次郎から伝えられた「家訓」で、安藤輝三もそのような薫陶の中で生育したものと思われる。
二・二六事件の青年将校安藤輝三大尉の本籍は岐阜の揖斐であったが、実際には岐阜では暮らしていない。しかし、父の安藤栄次郎を通して、岐阜の精神的・身体的な遺伝子をしっかりと受け継いでいると確信する。
私は墓参も兼ねて安藤家本家や長源寺を訪れ、街道の果てに水戸天狗党が超えた山々の影を見、揖斐川北岸ののどかな風情を見て、何故か漸く故郷に帰ってきたとの安堵の気持ちを抱いた。それは祖父の安藤栄次郎が強い意志を持ち東京に向けて揖斐を出立してから、約130年も経過していた。
安藤輝三大尉
甥 安藤 徳彰
二・二六事件に遺された現代へのメッセージ