健康法師からの便り

二・二六事件の安藤輝三大尉に発布された大赦

投稿日:2024年10月30日 更新日:

二・二六事件の真実

二・二六事件とは1936年(昭和11年)2月26日から29日にかけて発生したクーデター未遂事件です。陸軍皇道派の青年将校が1483名の下士官・兵を率いて「昭和維新」を断行して国家改造を行おうと決起しましたが天皇の激怒により失敗に終わりました。

二・二六事件が成功していれば太平洋戦争は起きませんでした。何故ならば皇道派の将軍達は皆戦線不拡大を望み、青年将校達は疲弊した国民を救うための「国内改革」をめざしたのです。

 

二・二六事件(1936年)のころの社会状況

国民の窮乏:東北地方は度々冷害に見舞われた。昭和の大恐慌の最中、昭和6、7、9、10年の昭和初期凶作群がありました。その中でも、北海道、青森等東北部の凶作は甚だしいものでした。また、1933年(昭和8年)昭和三陸地震が起き、三陸沿岸が津波で甚大な被害を受けました。東北の村々では町役場に公然と娘を東京方面への娼婦として斡旋する張り紙が掲示され、そのための係が存在したほどです。

庶民、特に農民は塗炭の苦しみを味わいました。ところが支配者階級にはこの様な状況を改革しようとする動きは全くなく、仁政も行われませんでした。

(参考:飢饉は日本だけではありませんでした。ソ連邦においても計画通りの収穫が得られませんでした。ヨシフ・スターリンは領土下にあったウクライナの農民から農作物をすべて収奪して、ウクライナの農民は道に生えている草しか食べるもものがなく、1100万人が餓死しました。強制収容所ではこのほかに350万人が死亡しました。これをホロド・モール事件といいます。ロシアを理解するうえで参考になります。ウクライナ戦争もプーチンが石油・天然ガス以外に食料を持って世界をコントロールしようとする野心から起きたものです)

 

明治維新の制度設計の綻び

昭和初期になると、明治維新における日本の制度設計に綻びが生じてきました。(前回の投稿「令和の改新のすゝめ」から以下抜粋します)。

「昭和初期になると、日清、日露戦争に勝った日本は慢心し、汚職や腐敗、癒着などが蔓延して、特に支配層の腐敗は深刻であり、財閥と政府、官僚、軍部の癒着、日本における利権構造が出来上がりました。また、天皇の下の直列的な支配構造なため、部門間のチェック機能が働かず、これが各権力の増大、腐敗、暴走を生む土壌となりました。不祥事が生じても天皇に任命権があり罷免できず、自浄作用が働きませんでした。

さらに深刻なのは人材の劣化で、昭和の初期においては、明治の元勲の子孫たちが権力の場につきました。また教育では明治に導入されたプロイセン流の教育により実経験に乏しく視野が狭く、変化する世界情勢のなかでの国家として有効な戦略作成や問題解決力に欠けていました。特に軍人は「軍事バカ」といわれる偏った教育を受けていました。

これは明治維新の制度設計の過ちであり、それが顕在化して、敗戦という日本の凋落を経験したのです。」

 

青年将校の思い

隊付青年将校たちは部下の兵士たちを通して、国民の窮状と実体を痛感して、改革を求める機運が高まりました。

隊付将校とは、実際に兵を預かる部隊の将校です。毎年一月になると初年兵が入隊してきます。そこで各初年兵の身上調査を行います。二・二六事件に連座した林八郎少尉について述べている『同期の雪』から一文を紹介します。「私は、仙台の同期生から来た手紙の内容を彼(林)に話した。初年兵の身上調査についてである。『東北地方には冷害が続いて、農民の疲弊は甚だしく、その生活は被さんを極めている。娘はみな女郎に売られてゆく実情にある。俺は初年兵の身上調査をしながら毎晩泣いている。彼らがかわいそうで俺の心がくじける』。林八郎少尉も『こういう兵隊が多いのだよ。この兵たちを連れて近く満州に移駐する。弾の下で死んでくれよと言わねばならん—』」

この様な状況下で、社会的正義感の強い青年将校等は社会改革の道を模索し始めました。帝国大学で学んだものは社会主義にと傾き、士官学校で学んだものは「国家改革」を望む青年将校となりました。それらの青年将校は皇道派と呼ばれ、やがて二・二六事件を起こしたのです。

二・二六事件で刑死した将校に兄が左翼運動にかかわっていた者が二名います。一人は上記で述べた林八郎少将で兄俊一は東京帝国大学社会科学研究会の指導者で1931年に検挙。もう一人は安田優少尉で兄薫は京都帝国大学学連事件後に1931年に検挙。尾崎秀実とも親交がありました。林少尉にしても安田中尉にしても兄弟仲はよく、安田兄弟は「お前は右からやれ、俺は左からやる」と話していたそうです。

林少尉の出身は冷害が酷い庄内(山形県)で、安田優は天草の出身で、実家も裕福でなく周囲の貧しい人々の暮ら農村を見てきました。安田優の二・二六事件の被告人尋問調書によると「北海道山奥ノ人民ノ生活ハ満州人等以下ノ生活デアリマス。殊ニ北海道ノ北見ノ方ニ行クト、十一月頃既ニ一月位頃マデニ食ス馬鈴薯モ(米、麦ハ勿論ナシ)無イト言ウ有様デアリマス。然ルニ農村ノ租税ノ割合ハ都市ヨリ多ク—-」

安藤輝三大尉は個人的には給与の三分の二は兵隊たちの救済のために使い、残りの三分の一で生活していたと証言されています。

青年将校の中には、自分達の理念の根拠を北一輝『日本改造法案』に求めたり、大塩平八郎(1837年天保8年)を研究したり(『洗心洞さつ記』、平泉澄から国学を学んだりしましたが、極端な国粋主義などではなく、実態は庶民の生活苦から誘発された隊付青年将校の「農民一揆」であると思います。あくまでも初動の一挙を終えた後はひたすら天皇の御心(みこころ)に委ね、天皇ご親政による国家改革を願いました。

 

統制派(永田鉄山)の台頭と皇道派(真崎甚三郎)

この様な状況の中で「中央集権的軍事独裁国家を建設して、国政の隆興を図ろう」とするグループが勢力を伸ばしてきます。主導者は永田鉄山少将です。真崎と永田はともにドイツに留学したが異なる見解を持っていました。永田大尉(当時)はルーデンドルフ大将の戦略に心酔し、日本に持ち込もうとしました。しかし彼は「何故ドイツが負けたのか」については考察しませんでした。真崎少佐(当時)は1911年から14年までドイツに滞在しましたが、「戦争程悲惨ナルモノハナシ、日露戦争当時余モシ生還セバ僧侶タラント決心セシ位ナリシ」と述べ、『西部戦線異状なし』が出版されるとこれを原書(ドイツ語)でよんでいます。また、真崎は軍人の一般教養の低下を嘆き、士官学校校長になってから軍事偏重の課程から当時の高等学校の文科と理科の中間に改正しました。師団長のころはニーチェなども読んでいた幅広い教養人でした。

チャーチルは『大戦回顧録』の中で、「いかにドイツが強力であっても、世界を相手に勝てるものではない」といっています。この観点を実戦の経験の遠しい陸大でのエリートは、いわゆる、軍事バカであったが故に見失ってしまったのです。

満州事変が一区切りついた昭和8年6月陸軍中央部は今後十年間の国防について陸軍省お参謀本部の合同会議を開いた。

この会議においてわが国が最も危険を感ずるものはソ連であることは一人の反対もなかった。ただ方策として中国を力をもって処理した後にソ連に当たれとする意見が永田鉄山第二部長から主張された。しかし、①ソ連一国を目標とする自衛すら困難が予想されるのに②中国と全面的に戦うことは、わが国力を極度に消耗するのみならず、短期間に終結することは困である。東洋民族である中国とはあくまで和平の道を求めるべきである。そして中国大陸に足を踏み入れることは、全面戦争になる取った意見が圧倒的であった。とくにこれを強く主張したのは小畑敏四郎第三部長であった。このときの意見の対立は、火を吐くような激しいものでした。真崎甚三郎参謀次長は常に、中国に手を付けると欧米が黙っていない。結局ソ連が漁夫の利を得るとの見解でした。

永田鉄山は軍務局長の職を得るや、その立場を利用して、陸大卒の幕僚や高級官僚、政治家でグループを作り日本を軍部独裁国家に持っていこうとしました。これがいわゆる統制派です。宮中の木戸幸一(秘書室長→内大臣)、閑院宮参謀本部長も常に統制派寄りの行動をとりました。

昭和8年に永田の意図を受けた幕僚が『日本改造案』を作成、それはルーデンドルフの思想そのものでした。政治、経済、教育、文化全てを軍に奉仕させる体制です。それが『戦争指導計画書』となり、それを下に二・二六事件後に統制派は『帝国国策要領』を広田内閣に閣議決定させました。それは南方への進出、日独同盟、ソ連米国を仮想敵国とする、中国、英国に対しても軍備を整えるという「全面戦争」への転換でした。この『戦争指導計画書』を東京裁判のロビンソン検事も探しましたが皆焼却されて見つかりませんでした。しかし、平成8年に古本屋で発見されたのでした。

同じ昭和8年に永田鉄山、東条英機、武藤章らは時局に対する研究案を作り、この年の11月に服部卓四郎ほか数十名と『軍人官干与非常事態勃発に対する研究』を作成。将来皇道派青年将校か起こす事態を予想し、それにどう対処し、また、それを機会に皇道派将軍を粛正して、どの様な改革を進めるかということが主題であった。昭和9年『政治的非常事態勃発に処する対策要綱』として纏められました。

戦線拡大を求める統制派はこのプランに則り、皇道派青年将校を追い込み蹶起に駆り立て、それを契機に皇道派を一網打尽にして軍国体制を敷くこと、戦線拡大に反対する皇道派の将軍、特に真崎甚三郎大将を中傷、誹謗、策略によって抑え込むことに専念しました。

真崎甚三郎大将の更迭

昭和9年8月永田軍務局長は腹心の部下を国府津に集めて密儀を凝らしました。そこで謀られたことの一つは、陸軍士官がぅ校候補生を誘惑扇動して、重大事件を惹起せしめて、真崎大将の地位を失脚せしめて陸軍の人事を有利に宴会せしめんとする陰謀です。その実行役として辻政信大尉を士官学校に転任させました。1934年(昭和9年)クーデター未遂事件ありとして磯部浅一、村中幸次を停職処分として5人の候補生を退校処分とした。村中や磯部は獄中から事件をでっち上げとして告訴したが陸軍は審議しようとしなかった。かくして、教育総監であった真崎甚三郎は1935年7月に不祥事の責任を取らされ更迭されたのでした。真崎、荒木両大将は参与に降格されました。これに皇道は反発し、8月には皇道派の相澤三郎中佐が永田鉄山軍務局長を惨殺することになります。

 

二・二六事件を誘発、皇道派青年将校の殲滅

皇道派の将軍を無力化した後は、青年将校にクーデターを誘発させ、それを契機に戒厳令を敷き、一気に皇道派青年将校を殲滅しようとしました。

皇道派青年将校の多くは第一師団に属していました。1936年に第一師団の満州派遣が内定しました。これから拡大させる中国の戦線に皇道派青年将校を投げ込み殺してしまおうという謀略です。または、これを契機にクーデターを誘発させて、一網打尽にする謀略でした。

(西郷隆盛が下野したときに、長州勢を主流とする政府は西郷暗殺団を送り込んだり、火薬製造工場を奪い取ったりして激高した学生たちが暴発して西南戦争になりました。やり口は同じです。)

安藤輝三大尉は別の構想があり、時期尚早とみて慎重であったが、「栗原達が自分達だけでも決行する」と主張し止められず決行直前の2月23日に参加を決心しました。自分を起たないと歩三が起たず、500名程度の蹶起では成功の確率が極めて低いことと、自分が起たなくても、失敗すれば連座制で処刑される。安藤輝三は以前に鈴木元侍従長の自宅で歓談し、話が弾み昼食迄御馳走になっています。安藤大尉は、「鈴木貫太郎は会ってみると西郷隆盛の様な人だ」と尊敬の念を抱きました。襲撃に当たっても「一時的に拘束するのではだめか」と願い、同胞の反対に会うと自ら襲撃の担当を買って出ました。しかし、襲撃に際し兵隊は銃を発射できない様にし、至近距離から数発発砲した軍曹も射撃の名手であるのに全部急所を外していました。

 

事前の漏れていた襲撃

二・二六事件の計画は事前に漏れていました。木戸幸一内大臣(襲撃のときは秘書室長)の息子木戸孝純は友人黒木従遠に電話をし、『今夜あたりからいよいよ決戦になるらしい』と電話を受け、黒木は親友と密かに寮を抜け出し市ヶ谷法然に向かいました。木戸はこの情報を西園寺公望だけに伝え、西園寺公は一足早く静岡警察部長の官舎に避難しました。木戸は事件早朝6時には警視庁総監、西園寺公望の秘書、近衛文麿、湯浅内大臣らを集め「全力で反乱軍の鎮圧に集中し、反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や安定内閣を成立させない」ことで取りまとめ、宮内大臣より天皇に上奏しました。軍上層部が動く前に勝負は決まっていたのです。

国学者 平泉澄による工作努力

平泉澄は政界、軍部にある程度の影響力を持つようになってきたが、1934年に林銑十郎が斎藤実内閣の陸相になり、永田が軍務局長に就任してからの皇道派の退潮に危機感を持っていました。秩父宮にも国学を進講していました。皇道派の青年将校も勉強会を開いていました。事件の朝、平泉は弘前にいる秩父宮に「一刻も早くご帰京願い奉る」と依頼し、9時10分に上野駅から汽車に乗って水上駅で秩父宮を待ち、1時2分に到着した列車に乗り込み「委細言上」しました。

平泉の解決案は

  • 天皇が下々の脅迫・強要に屈服して方針を変更するのは断じてあるべからず。
  • その精神は組むべきであり、この際勇敢に時弊を革新すべし。
  • 時局の収拾のために近衛文麿を中心にし、荒木貞夫、末次信正を補佐として進めるべし。

この様な平泉の構想も失敗に終わりました。

 

戦線の拡大

二・二六事件に関与の疑いで真崎甚三郎は投獄されました(1936年)。起訴されたその日に林銑十郎が総理大臣となりました。さあ、統制派のやりたい放題です。同年に軍務大臣現役武官制が復活しました。これで、軍の賛成なしでは組閣できなくなり、皇道派完全排除に効力を発揮しました。この法案成立には次田大三郎法務局長が奔走しました。次田の義兄は野坂参三でした。1937年7月、真崎甚三郎の逮捕を待ってましたとばかり、統制派による盧溝橋事件が勃発しました。

1938年真崎甚三郎は判決で無罪となりましたが既に戦線は拡大に向かって進んでいました。

秩父宮病気療養

統制派にとっての心配は秩父宮の存在です。秩父宮は英国留学後、英国式の斬新的革新政治を望まれた。また軍や政治に不満を持っておられ、度々天皇によるご親政による改革を提言しました。

秩父宮は戦線不拡大のために奔走し、重慶政府等との和平工作に期待していました。秩父宮の華南、華中の視察は和平工作が現実味を帯びてきたときになされました。ところが帰国後秩父宮は病床に倒れたのです(1940年)。交渉相手の汪兆銘は結核を患い1944年名古屋で喀血死しました。秩父宮は療養生活が続き、1953年に逝去。遺言による病理解剖されました。秩父宮の療養生活は統制派にとって非常に都合の良いものでした。中国には731部隊が存在し、リットン調査団にチフス菌を塗ったリンゴを食させたり、投獄した満鉄の調査部のスタッフが10名ペストで死んでいます。

 

近衛内閣倒れる

さて最後の邪魔者は近衛文麿です。最後まで和平の道を探り邪魔でしょうがない。

1940年10月から1941年3月まで、尾崎秀実の指導の下に満鉄調査部500人を動員して調査を行いました。①「支那抗戦力調査」②「英米蘭の政治、経済、軍事力調査」③「日本の経済力調査」④「ソ連に対する同様な調査」。綜合評価は「日本必敗」でした。

この結論が調査を命じた日本陸軍の不興を買い、尾崎を始めとする調査部のスタッフ50名が検挙投獄されました。

尾崎秀実逮捕に関連し近衛内閣は倒れますが、反戦を望む近衛は後継に東久邇宮を推薦するも、木戸幸一内大臣の強引な人事により東条軍事内閣が発足しました。

 

1941年12月に日米開戦

近衛文麿の確信、皇道派復活の願い

広い交流の中で情報を整理してきた近衛文麿は統制派が造った『戦争計画書』の存在と内容を知るにあたり、それは日本が採るべき道でないとの確信が高まりました。それ以降皇道派を信じる様になりました。その『戦争計画書』は娘婿である細川護貞(もりさだ)がたまたま企画院でみたもので義父の近衛文麿に内容を伝えました。細川護貞は細川護熙(もりひろ)に父親です。

昭和12年7月の盧溝橋のときも早期解決を図るも軍首脳部と宮中勢力に阻まれ、皇道派に復活を望む様になりました。支那事変に際して、「皇道派の荒木、真崎などが追放されず表面に出てきていたら、支那事変は、或いは起こらずに済んだかもしれない」と回想しています。近衛公は二・二六事件の政治犯(北、西田)の恩赦も試みましたが刑は実行されてしまいました。また、敗戦の色濃くなるにつれ真崎甚三郎を復活させようと試みましたが宮中の反対に会い実現しませんでした。

 

近衛上奏文

1945年2月14日、敗戦の色が濃くなり近衛文麿は天皇に意見を上奏しました。

内大臣の木戸は自分は上奏の立ち合いの番ではないのにわざわざ変わって立ち会いました。近衛公の上奏の内容は①戦局に勝算ないこと②満州事変以来、民間、官吏、軍内に不良の思想の徒あり、外に事を構えて国内をソビエト化せんと陰謀あり。これらの徒を一掃せざる限り戦争終結の見込みなし③中には米英撃滅と称して親ソ政策をとらんとするものあり。④人の問題である。

陛下より下問あり。①陸軍より米国にては皇室を抹殺すと決議せり、故に勝つまでは戦う他なしとの奏上あり②陸軍にては勝つ見込みありと言うが。③人の起用といえば如何なるものありや。近衛公応えるに、人の起用とは真崎、宇垣あり。

4月15日近衛公上奏に尽力した岩淵、植田、吉田、樺山、原田らは憲兵隊により逮捕、投獄されました。結局「近衛上奏」による皇道派の復活はならず関係者の逮捕、投獄という結末となり、平沼、岡田らの重臣たちは真崎の復活を主眼とする近衛の出現を嫌って日の目を見ぬまま敗戦へと向かったのです。軍に上奏の内容を伝えたには、立ち会った木戸内大臣に他ならないのです。

 

近衛文麿と木戸幸一

双方とも京都大学にて河上肇の教えを受けています。近衛家は五摂家の一つで、木戸は木戸孝允の甥です。近衛文麿は親英米で統制派がはびこる政局の中で和平の道を探っていましたが、木戸は終始統制派の側に立ち、戦争責任においても重いものがあるはずです。統制派及び宮中派はソ連を信じ、いざとなったら天皇を満州にお連れして、ソ連を背後にして米国と戦うとの案もありました。また、終戦にしてもソ連の好意的な仲介を信じていました。

昭和20年3月3日の宗像久敬氏の日記の記述によると、この日宗像は木戸と面談し次の様のことを木戸から聞いたといいます。『共産主義と言うが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。今の日本の状況からすればもう構わない。ロシアと手を握るが良い。英米に降参してたまるものかという機運があるのではないか。結局、皇室はロシアの共産主義と手を握ることになるのではないか』と述べたという。

終戦後マッカーサー元帥は近衛公に憲法改正を命じましたが、進駐軍の調査官E.Hノーマンがアメリカのマスコミに「近衛こそ開戦の責任者である」との見解を広めたのです。ノーマンは木戸の都留重人の親友でありました。近衛と木戸は東京裁判に告発されましたがノーマンは近衛に極めて厳しく臨みました。かくして、近衛は自死し、木戸は罪を免れて87歳の天寿を全うしました。昭和天皇も87歳で天寿を全うしました。

 

近衛文麿の自死

裁判で近衛にしゃべられると宮中側にいろいろまずいことが山積です。ですから、他殺ではないかとも憶測されます。しかしながら、梨本宮守正がA級戦犯容疑で逮捕されたときに近衛公は『宮さまも宮様だ。何故陛下のために、日本のために自決してくださらなかったのか』と述べています。このことから類推しますと、近衛公は「陛下のため、日本のため、黙して死す」道を選んだのだと思います。

 

「消えていた反乱罪」

昭和34年皇太子殿下のご成婚を機会に有志により二・二六事件の恩赦陳情書が提出されました。法務省から公文回答がありました。

「当該受刑者は何れも大赦令により赦免」「この大赦令で、死刑になったという罪名も全く消えたしまった訳です」「戦後十三年年間この事件が神隠しに会った様に判らずにいたことは、遺憾といえば遺憾ですが、何者かの天意があってそうさせたと解釈すればまた別の深い示唆を感ずるものです」

(筆者が推察するに、この大赦令を神隠ししたのは法務局長次田大三郎ではないかとおもいます。極東軍事裁判主任判事ロビンソンは「真崎将軍は太平洋戦争に全く関係ない」としたのに対し、委員会では次田大三郎一人が頑として反対し、全会一致が原則のため赦免がなかなか実現しませんでした)。

北一輝の弟が今回の恩赦陳情にかかわった七夕氏に宛てた書簡の一部を紹介します。「近衛公は真崎大将が支那事変に反対」なことを知り陸相に抜擢せんと欲した位であったので早く無罪を宣言致したい考えであったけれど、宮中の側近の誤れる考えで出来なかったそうです。大赦令に二・二六事件の関係者を含ませたのも近衛公の意見があったとのことです。安藤大尉の人格は非常に立派であったことは十分承知しています。未亡人には合わなかったけれど長野朗君から生活状態を承っています。まことに夫人のために賊名を除いたことは喜ぶ一人であります。」

 

結語

日本の民主化は敗戦という外圧により達成されました。しかし明治の初期に福澤諭吉が主張した様に英国式の立憲主義を取り入れれば近代国家に早く成熟できたはずです。しかしながら、岩倉及び長州勢により天皇を神格化し中央集権的な体制を取り、昭和になると制度疲労を起こしたのです。このときに天皇親政による国家改革が断行できていれば、その後漸進的な改革が続行し、より成熟した社会体制に移行できたと思われます。

しかしながら、多くの犠牲を払い、敗戦という外圧により戦後民主化が図られたのです。

現在、この民主化をより成熟させようという動きと逆行した動きがあるのも事実です。

二・二六事件が残した現代へのメッセージを読み取ることが大切です。

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