秩父宮と安藤輝三大尉の絆
私が中学生の頃であったろうか、父が何かを思い、隣の祖母の家にしまってある安藤輝三と秩父の宮殿下にかかわる遺品をすべて破棄した。
記憶としては、宮から拝受した乗馬の鞍、スキー用具一式、行李一杯の書簡(多くは宮からの書状)等であった。両親はその内容を読んだらしく、「君、僕という表現の親愛感に満ちたものであり、驚いた
と話ていた。二・二六事件直前に安藤輝三が房子夫人に託した宮が留学中の六通の葉書や手紙は別のものである。破棄は安藤輝三大尉と宮との絆が世間に誤解されるのを懸念したのかも知れない。父には考えがあってのことだろう。庭先ですべて焼却した。
大正十三年四月、安藤輝三以下2名の士官候補生が麻布にある歩兵第三連隊に配属されてきた。その軍事教官は第六中隊付少尉の秩父宮雍人親王である。若い秩父の宮はこの三人の教育薫陶に情熱をささげた。これが、秩父宮と安藤輝三大尉の最初の出会いであった。ある日、代々木練兵場の小高い森で宮と候補生のディスカッションがあった。テェーマは「これからの日本はどうあるべきか」であった(この下りは(1)章で述べた)。
宮としてもこのことが一番の関心事であったのであろう。安藤輝三大尉は父安藤栄次郎が傾斜していた宮崎トウ天の大アジア主義の観点からの意見をとうとうと述べた。宮崎トウ天の主張のベースには国学があり、安藤輝三の考えも国学のベースが色濃かった。ここで安藤輝三は宮から大きな宿題をもらった。「今の国内情勢では、日本がアジア全体のことまで面倒を見ることなど、その実力においても、国内体制においてもまた、対外信用からしても不可能に近いと思う。そのためには、低迷している日本人の国民精神を振起させ、腐敗した政治を刷新し、民生を安定させて、国力の充実を計ることが先決でないか・・・・。この問題は、これからの残された在隊間、さらに本科に入ってからの二年間に、じっくり考え、見習い士官として原隊復帰するまでに、一応の結論をまとめておくんだな・・・・」(宮)
事実安藤輝三はこれにより国内改革の心に火がつき、数年後にこの代々木練兵所の場にて銃殺の刑に処されるのであった。
これに先立ち大正十一年七月、陸軍士官学校の卒業式を一週間後に控えた第三十四期生の中に、人目を避けてひそかに会合する生徒の一団があった。秩父宮ほか数名。西田税(みつぐ)は自ら主唱する「青年アジア同盟」と、北一輝の「日本改造法案」による国内改革を切々と訴えた。秩父の宮は「君たちの考えはよく了解した。しかし、源流澄まざれば下流の濁りを無くすことはできない。君たちはこれまで皇室の在り方について、何か考えていることはあるか」(宮)。「僕は皇族の一人として、卒業後は皇族の在り方について、僕のできるだけのことをしたいと思う。もし、反省すべき点があれば潔く反省して、国民の信頼と尊敬に対して、恥じない存在にならなければならないと思っている。結果は僕のやることを見ていてくれればわかる。君たちは君たちの分野でやり給え。」(宮)。西田税たちは、この言葉に感激した。西田税はその後革命家としての道を歩み、後に二・二六事件連座したとして代々木で銃殺刑に処される。
若き期待の星 秩父宮
秩父の宮は二十歳前後という時点で、国内問題や国際問題、国民の立場に立って考えようとする姿勢を示している。これとの関連で、先の安藤輝三達士官候補生への質問ともなった。
大正十四年に秩父の宮は英国留学に出発する。しかし、オックスオード留学は父大正天皇の御不例のため急遽帰国した。この短期留学で得た結論は「漸進的革新」という路線であった。安藤輝三宛の英国からの手紙にも、「英国は伝統を大切にしていて、日本もそのようであるべきだ
と記されている。
秩父の宮は昭和三年陸軍大学校に入学した。陸大の卒業時には、成績優秀であったため慣例に反して恩賜の軍刀を与えてはとの議論が教官の間であった。月に何日かの公務で時間を取られる中、陸大で優秀な成績を残すのは至難の技であった。秩父の宮は入学早々一般学生と同様に課題を提出した。その一部を紹介したい。「国民思想について:主要なる原因を探求すれば、不自然たる貧富の懸隔、利己的狭隘なる政治の跋扈、無理解かつ消極的のみなる思想取締等に指を屈すべし。働けども喰うにあたわざるものある一方、親譲りの巨万の富を擁し、何等国家的奉公のことなく徒食するものあり。誰かかくの如き社会を不条理と言わざる。上には国民を欺瞞し、自己のためには国家もなき徒国政に参与し、清廉にして愛国の至情に燃ゆる有為の士は、何処にも志をのぶる余地なし。青年が過激なる思想を抱くは一生の一過程にして、この種の中より真の愛国者出ずるはしばしばなり
、「対外政策:無定見なり。確乎不変の国策なければ侮りを外に招く。国際信用を失える国家は孤立に陥るべし。米国の如く自給自足の国は別として、我国の如く多くの必需品を外国に求むる国は、孤立は即ち自滅を意味する
。
昭和六年11月より第一師団歩兵第三連隊第六中隊長努めた。この歩三勤務を通して安藤輝三達との絆を深めた。この頃陸軍内での宮に対する評判はすこぶるよく「弟君が、兄君であらせられたらなあ」という声さえあったという。
昭和天皇との意見の相違
一方、昭和天皇に対しては、天皇のご親政による国内改革などを進言し、激論となったといわれている。
以下 「本庄日記 (昭和六年の末より七年の春)
より。「秩父の宮殿下参内、陛下にご親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止も亦止むを得ずと激せられ、陛下との間に相当激論あらせられし趣なるが、其の後にて、陛下は鈴木侍従長に、祖宗の威徳を気ずつくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、親政というも、自分は憲法の命ずる処により、現に大綱を総攬せり。此れ以上、何を為すべき。断じて不可なりと信ずと漏らされたり。誠に恐ようの次第なり
。このころには秩父の宮は西田税から渡された北一輝の「日本改造法案」を読んでいたという。また配下の兵に直接農村に家庭の状況等を尋ね「そうか、そんなにひどいのか。何とかしなくてはならんな。」とつぶやいたりしていた。つまり、兵、下士官、隊月将校たちから直に国民の困窮を知る立場にあり、どの様にしたら良いのか皇族の立場で悩まれたのだ。天皇は世間から隔絶された環境におり、国民の実態に触れる機会はなかった。いや、明治憲法下では、国民の救済という観点はなかった。方や、この時期に秩父の宮は村中と同行し北一輝の自宅訪問もしていた。秩父の宮は昭和天皇からの内意により昭和七年九月に青年将校から引き離すために参謀本部策戦課に転補された。
事件発生の朝6時には、木戸幸一内大臣が宮中関係者を集め、「反乱軍を討伐し、都合の良い内閣を作らせないことで方針を決定」し、天皇に上奏していた。勝負はもうついていたのである。統制派(戦争推進派)は事件が起きることをかなり前から想定し、事前の対策を練っていた。また、事件も事前に漏えいしていた。
秩父宮の無念苦悩
事件を受けて秩父の宮が上京のため二十六日午後十一時に御仮邸を出て、翌二十七日の午前一時、列車は上越線水上駅に停車した。反対側のホームに下り列車が滑り込む様に入ると学者風の紳士が下車し、特別車両の前まで来ると、秩父の宮を発見して会釈した。帝大教授の平泉澄博士であった。博士は特別列車に乗り込み、色々報告や私見を言上した。これが後になって色々の憶測を呼ぶこととなり以降平泉博士は冷遇されることになる。後に「みちのくの積もる白雪ふみわけて今、日の御子は上がりますなり」と歌を詠んだ。偶然平泉博士の直筆と思われる書が、山田哲司君から寄贈された山田君の叔父の二・二六事件関連の遺品の中に折りたたんでしまってあったのでここに紹介する。世間で紹介されている文面とは若干ことなるようだ。ウイキペディアでは、御子が王子になっていたりする。
平泉博士は秩父の宮に「日本の政治史」をご進講していたが、一方青年将校達も青山の梅窓院に平泉澄博士を始め国学の権威者たちを招き、日本の現状と照らして討論を行ってきた。
秩父の宮は夕方に上野駅に到着し、昭和天皇に拝謁したが、翌日谷田には「叱られたよ」と語っている。奉勅命令の出た後では、秩父の宮の出る幕は無かったのでさる。
秩父の宮の所属した第一師団が事件の主体で、しかもその配下の歩兵第三連隊が主体で、秩父の宮が中隊長をしていた第六中隊が核心であり、しかも秩父の宮が信頼していた安藤輝三大尉の部隊が一糸乱れぬ統率力で参加していたことは、昭和天皇にも不気味であり、憶測も呼んだであろう。秩父の宮の苦悩も伝わってくる。
秩父の宮も安藤輝三大尉も、国家改革の必要性を認めながらも、漸進的・合法的・非武力的なものを探っていた。であるから、安藤も最後まであの時期での蹶起に反対であり、慎重であった。特に安藤輝三大尉は御身心がわからなかった。しかし、火山が噴火するがごとく、或いは大地震が起きるがごとく、その溜まったエネルギーの暴発は、安藤輝三大尉も止めることができなかった。その引き金は第一師団の満州派遣決定であった。皇道派青年将校の所属部隊の大半が第一師団に属していた。満州に派遣されれば改革のチャンスは失われてしまう。一部のもののみの暴走では五・一五事件の如く、線香花火で失敗し、参加しない者も連座で逮捕・投獄になる。万事急須である。最後の賭けが、安藤輝三大尉も参加し、大規模化して成功の確率を高めることであった。たとえ逆徒の汚名が課されようと、大塩平八郎の場合は、其の後幕府が窮乏者救済策を講じたではないか。しかし、昭和天皇の激しい怒りの前では、蹶起に同情的な将軍たちも如何ともし難く、天皇の奉勅命令を受け入れざるを得なかった。青年将校達の声は一切昭和天皇の心には届かなった。
二・二六事件で皇道派が一網打尽にされ、統領の真崎甚三郎も事件主導の疑いで投獄され、後は、一気呵成に戦線を拡大するのみであった。待ってましたとばかり支那事変が始まる。今邪魔な存在は、平和のへの希望を捨てない近衛文麿首相であった。事実近衛文麿は首相辞任後も皇道派を復権させて戦争を終結させようと試みた。最後の試みが昭和二十年二月の近衛上奏文であった。
英傑 秩父宮殿下
秩父宮はまれに見る英傑であった。皇位継承一位であったが、宰相なり、或いは天皇なりになって日本をリードすれば歴史は大きく変わったであろう。若き日満州を視察したとき、日本の一方的なやり口を見て、「やがて満州を失うことになるであろう
と感想を述べた。二・二六事件が起きなくても戦争拡大は避けることができなかったが、宮が健康であれば、早期終結の力は加わったと思われる。英傑、賢帝、凡帝、愚帝があるとすれば、宮は英傑であり賢帝になられたであろう。筆者はスイスに旅行したことがある。ホテルからマッターホルンの勇壮な姿が見えた。角のような形状で高く聳え立つ。秩父宮は英国留学の折スイスを尋ね、このマッターホルンの登頂に成功した。秩父の宮はこの山の様に、孤高で気高く、絶対的な存在であった。
安藤輝三大尉
甥 安藤 徳彰
二・二六事件に遺された現代へのメッセージ