二・二六事件が起きた頃の国民の窮状、権力者の腐敗と堕落は蹶起青年将校以外でも、誰しもが指摘するところであった。
自然災害、世界恐慌、満州事変に反発する日本製品のボイコットなどにより、日本国民の生活は困窮することになる。特に、東北の農民の窮乏は想像を絶するものがあった。
時代背景
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この様な世相の中で、政治家は「失業者は自然現象で、不景気がくれば当然のことである。」(井上蔵相)、「失業者に失業手当をやれば国家百年の計を誤る」(安達内相)と放言する一方、二大政党は財閥の利害を巡る政争に明け暮れ、国益を亡念した政治家の汚職が横行していた。松島の遊郭事件(若槻首相関与)、鉄道大臣の鉄道疑獄、文部大臣の収賄事件など、枚挙にいとまがなく、国民に根深い政治不信を与えていた。
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軍閥・財界との癒着を示す一例を挙げよう。「当時の財界の慣例として、大将に親任されるとその人に財界から金十万円(現在の価格で数億)と京都に別荘をお祝にとして贈ることになっていた。それを拒絶したのは己(真崎大将)だけだ、と大将は語られた」(農民運動家長野朗談 『昭和史の証言』より)
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軍部の腐敗を如実に物語っているのは、満州・支那での軍部・官僚の腐敗・堕落であった。満州は実質的には治外法権の地となっていた。戦線を拡大して一個師団でも増えれば、大勢の軍人が出世し、社会的地位と物質的利益が保証される。従って戦線拡大を欲し、堕落腐敗した。
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軍が中国の銀行から押収した金は日本政府の国庫に入れず、軍参謀或いは特務機関の機密費、私的享楽に使用された。例えば、田中隆吉が非合法な手段で手に入れた金で川島芳子を妾にして天津に東興楼という料理屋を設立して与えたように、皆、湯水のように私的享楽のために浪費した。特務機関は物資調達の横流しにより得た大部分を軍首脳に渡し、残りは自己享楽等に消費した。児玉機関の様な特務機関の一部は、所有していた資金や財宝を日本に持ち帰り、戦後日本政財界の黒幕となり暗黒界に君臨した。岸信介は利権を総括する立場にあり、阿片栽培、販売で得た利益を日本に持ち込み、戦後、戦犯逃れ、政界工作に使ったと言われている。
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東北地方は度々冷害に見舞われた。昭和の大恐慌の最中、昭和6、7、9、10年の昭和初期凶作群があった。その中でも、北海道、青森の凶作は甚だしいものであった。また、1933年(昭和8年)昭和三陸地震が起き、三陸沿岸が津波で甚大な被害を受けた。青森県津軽車力村村史によると、1926年(大正15年)650人の農民の大行列が行進した。大行進の先頭に戸板に「小作料をまけろ」、「小作人の生血を吸う鬼畜生を倒せ」などのビラを貼りつけ、むしろの旗を押し立て、簑を着てインターナショナルを合唱しながら行進した。この村の村史には、「村役場には公然と娘を東京方面への娼婦としてあっせん紹介をする係りがあり、(中略)小学校は先生に月給の支払いのできないような状態に陥っていたのである。」、兵隊は週一日の休みに、人力車曳きとして働き、僅かな金を貧しい実家の弟妹のために送金しているという状態すら村史に生々しく記録されている。」二・二六事件の津島勝男中尉はこの津軽出身であった。(『近衛上奏文と皇道派』山口富永 より抄出) 当時津軽は構造的に農民が困窮する問題を抱えていた。
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隊附将校たちは、所属の兵隊達を通して庶民の惨状を身に染みて理解していた。または将校自体必ずしも裕福な家庭の出身でないこともあった。夜泣いている兵士に理由をただすと、「妹が売られた」などということは日常茶飯事であった。安田優少尉は天草の出身だか、満州赴任の歓迎会が日本亭という料亭であった。回ってきた芸者が天草出身であると聞くと真顔になり、「こんなところで働かないで郷に帰れと」異常な熱意で諭し、後日また同僚を連れだって同所に赴き、故郷に帰る様に諭し、彼女に封筒のままの給与袋を渡したという。安田少尉は同郷の女性の境遇に義憤を感じたのであろう。安田優少尉は北海道勤務のとき11月になると食べるものもなくなる農民の苦境を知った。その苦境にありながら、国は税金を取り立てることに憤りを覚えたという。
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安藤輝三大尉に関する逸話を紹介する。潮文社から出版された『心に残るとっておきの話 第三集』 安藤輝三の母すえは世田谷区で下宿を営んで細やかな暮らしをしていた。昭和30年鈴木俊彦という学生(後に会社役員)が下宿する。そのときの逸話だ。当時三組の下宿人がいた。以下抄訳である。
一つ屋根の下の襖や障子を隔てての生活は、何もかも筒抜けだった。六畳のサラリーマン夫婦が、時々夫婦喧嘩のモデルになりそうな猛烈な取っ組み合いを始めた。解決のパターンは決まっていて、大工さんが旦那の方を一杯飲みに誘い出し、大声を上げて泣いているもう一人の主役を、おばあさんが頭を撫でながら、長い間やさしく諭していた。その時私は台所で聞いていたのだが、ずしんと胸に染み込んだ言葉がある。「どんなに長くて暗いトンネルも、抜けると必ず明るいところに出ますよ。それまでは用心してゆっくり歩くことが大切ですよ.転ばないようにね
日々接していても余りにもしっかりとしたおばあさんなので、ある時、例の主役の奥さんにそのことを話すと、『鈴木さん知らなかったの、二・二六事件の指導者で、後に銃殺された安藤輝三大尉のお母さんですよ』という。(中略)当時の国内事情から考えれば、このおばあさんがどんなにつらい立場におかれていたか想像にあまりがある。昭和十一年二月二十六日以降、こうしておばあさんは反逆者を産み育てた母として、先の見えない暗くて長い長いトンネルを歩き続けることになった。ある日、いつも笑顔で迎えてくれるおばあさんが寂しげな顔で下を見ていたので、「おばあさんどうした、具合でもわるいようだけど
と話しかけると、しばらくして、おばあさんはいつもの笑顔に戻ってから、「明日は息子の命日なんですよ。少し考えごとをしていたんですよ。今まで話したことはないんですがねー、鈴木さん聞いてくれますか、「ええ、聞かせて下さいと、私はカバンを抱え込んだまま廊下に座り、おばあさんの話に聞き入った。「立派な人が殺されました。息子たちのしたことは許されることではありません。多くの方に大変迷惑をかけ、本当に申しわけなく思っています。そしてねー息子たちは天皇に背いた、反逆者になってしまったんですよ。しかし母親の甘さですかねー、息子たちが何故あんな事をしたのか私にはよく分かるんです。息子が家から兵舎に戻るとき、食料品を持ち出すことがありました。はじめは、真面目で動物好きの優しい子でしたので、軍隊に入り、一人前になったつもりで、女遊びでも覚えたのではないかと思いました。ある時、家族が食べるのに困るほど、たくさん持ち出したので、玄関で掴まえて、厳しく叱りました。たぶんこの事は、嫁には知らせてあったと思いますけどね。すると頭を下げてこう言うんですよ。『私の部下に中には、家族が病院に行くことができなかったり、妹が売られたりしている貧しい連中が多いんだ。わずかだけれども持たして帰しているんだ。そのうちよくなるとおもうから、もう少し我慢してほしい。わが家は何とか生活できているんだから』」。そんな話のあと、おばあさんは、ぽつりと言った。「それから私はねえー、天皇に背いた息子を持つ母親となりました」。当時の天皇陛下から直接批判されるということは、死以上の大事であったに違いない。話を聞き、そして、おばあさんの人柄から察しても、多分安藤大尉は、純粋に国を憂い、部下を思い、決起に加わったのではないか。以来おばあさんは、息子の行為を背負い続けて年老い、深い皺と温もりのある風格を作り上げたものいだと思う。意志薄弱で不器用な私は、時々、心に傷を負い、しばしば落ち込むことがある。そんな時、必ずおばあさんを思い出す。その姿を、心の杖とさせていただき、今日を迎えることができたと思っている。
事実安藤輝三大尉は給料の大半を困った兵士などに分け与え、生活は苦しかったという(三分の一を妻に渡し、残りの三分の二を兵のために使ったという)。出世を望み陸大にすすむ軍事エリートとは異なり、個人としてできる限りのことをするが、それだけでは、困窮した庶民を救えない、精神的に堕落仕切った社会を「正したい」の一念が昂じたのであろう。
大塩平八郎の乱
二・二六事件で連想して想起するのは、大塩平八郎の乱である。二・二六事件(1936年)から丁度100年前の1987年(天保8年)におきた。天保の大飢饉は1836年の秋から1837年の夏にかけて特にひどかった。飢餓に喘ぐ大阪の民を救うべく大塩は蔵書を処分するなどの私財を投げ打って救済活動をするが、幕府の役人は厳しく年貢を取りたて、出世のために江戸に回米し、豪商は買い占めた。もはや武装蜂起によって灸をすえるしか根本的な解決は望めないと考え、天保8年2月19日(1837年3月25日に、門人、民衆とともに蜂起した。時代背景からしても、二・二六事件と共通点は多い。安藤輝三大尉は士官候補生たちに色々な話をした。安藤の週番勤務の日士官候補生は、以心伝心の発意で安藤の部屋を訪れた。自由意思であるが、16人全員そろった。何の話がよいかと問うと、皆、昭和維新の話だという。「そうか。では天保の乱、大塩平八郎挙兵の一席を話そう。」安藤の話はよく、ここまで勉強しているなと思うほど、当時の情勢、幕府の動向、大塩の心境の推移などを微に入り細に渡って説明しながら、物語を進めたという。大塩は高名な陽明学者であり行政官であり、集まってくる同学の士は後を絶たなかった。「身を殺して仁を為す」は大塩が日頃門弟に説いている訓えである。大塩のことは2章でも述べたが、ここで再度触れることとする。
二・二六事件で刑死(銃殺刑)した二人の将校には左翼運動にかかわった身内がいた。一人は林八郎少尉で陸軍少将林大八の二男である。もう一人は安田兄弟であった。林少尉の兄は一高在学中に共産党事件関連で警察に拘留された。当時の社会状況で、閉塞した日本から社会改革し人民を救済するとしても、その人の置かれている立場により、同じ家庭であっても方法論は変わった。安田家でも、幼年学校に行けば弟安田優は二・二六事件の青年将校となり、京都大学に通った兄は学生運動に傾斜し退学となった。ともに日本の現状を憂え、より良き社会を作るためにどのように行動したらよいのか苦悩した。安田優少尉の兄はその後尾崎秀実の紹介で満州の特務機関に勤務し、日本陸軍の腐敗ぶりを見てきた。
権力は自己増殖し、堕落し、腐敗する。自浄能力のない場合はその歯止めがない。議会には行政の行為をただす権限もなかった。任命権は天皇にあるからだ。軍の暴走を歯止めするのは、統帥権は天皇にあるのだから天皇しかできなかった。しかし、どの程度天皇は現状を把握していたのだろうか不明である。二・二六事件は、日本の選択としては国内改革をして困難を乗り越える最後のチャンスでもあった。しかし、天皇に全く改革の意思がなくては、蹶起部隊は反乱軍としての汚名を着るのは仕方のないことであった。
安藤輝三大尉
甥 安藤 徳彰
二・二六事件に遺された現代へのメッセージ