二・二六事件は1936年(昭和11年)2月26日未明、陸軍内の皇道派の影響を受けた青年将校ら1400人余りの部隊が社会改革を目指し重臣を襲撃し、殺害したクーデターである。その遠因としては、明治日本で成立した国家体制とその欠陥がある。昭和初期になると、その欠陥が堆積し、修復できないままで、戦線が拡大し、敗戦となった。
天皇を頂点とする、立憲君主国家の成立
宮廷革命
新時代は宮中革命から始まった。公武合体を推進していた孝明天皇が突然変死したのだ(1867年1月30日)。それは薩長同盟が成立したときであった。死因は天然痘とされているが不明であり、長らく死因についてのかん口令が敷かれた。第二次長州征伐の勅命が下されると大久保利通は西郷に「勅使は勅使にあらず」と書簡で公言し、岩倉具視は「国内諸派の対立の根源は天皇にある」とし、「孝明天皇が天下に謝罪すべし」と記している。天皇の方針に反対して追放された廷臣二十二卿が朝廷改革を求めて列参する事件が起きた(1866年10月8日)。天皇は激怒し参列した公卿らに閉門を命じた。天皇の権威は失墜していた。長州を嫌っていた孝明天皇の突然の崩御は長州閥や追放されていた公家たちにとって誠に都合よく、岩倉具視らの公家たちは次々復権し、政治の中央に躍り出た。このことから、岩倉が妹の女官を使い毒殺したとの説もある。また、明治天皇は睦仁親王に成り代わって即位した別人(大室寅之佑 長州の南朝系)であるとの説もあり、何かと騒がしいが、その真相究明は目的ではないので触れないこととする。
いずれにせよ、宮中革命により若干14歳の新天皇が即位し、孝明天皇の意思と反する薩摩・長州が錦の御旗を掲げる。
後に天皇は神聖化されるが、岩倉等の公家や長州勢にとって孝明天皇に対する敬意は見受けられなかった。また、当時300名の無頼漢が御所に乱入したという事件もあり、このとき皇太子は驚いて卒倒したという。何が起きても不思議でない状況であった。
明治十四年(1881年)の政変:
明治十年代の明治政府において、国会開設運動が盛んになる中で、政府内でイギリス型の議院内閣制(大隈、福澤が主張)を採用するか君主大権を残すビスマルク憲法(伊藤博文、井上馨)を採用するかの論争があった。岩倉は議員内閣制を取らず君主大権を温存する伊藤案を取り、伊藤に憲法作成を委ねることに決めた。
一方、新聞のスクープにより薩摩藩の開拓使長官・黒田清隆が同郷の政商・五代友厚に破格の廉価で官有物払下げを行うことが明るみに出ると、政府への強い批判が起き自由民権運動がいよいよ勢いを増した。伊藤らは払下げに反対した大隈一派を排除し反政府運動の鉾先を収めるため、薩摩閥と組み、大隈の罷免を決め、大隈、福澤一門を中央から追放した。政変で下野した福澤派の人材は実業界、政界などで活躍した。これが明治十四年の政変の背景であるが、以降長州閥主導で国家体制をデザインした。この政変はその後の日本の方向性を決める重要なターニングポイントとなった。
福澤諭吉は、民主主義は人類進化の結果としてもたらされた形態ととらえ、それに向かって新しい日本のデザインをするべきであると考えた。この政変により、日本は、福澤諭吉が唱えるような、開かれた民主主義の道を歩むチャンスを逸した。福澤はイギリスの様な政治形態が日本の進む道だと思っていた。王室があって、その元で議会制民主主義がある。王室という歴史・文化と個人の成熟をベースとした立憲議会制民主主義が望ましく、個人の独立・自尊の伸長は健全な民主主義成立の前提条件であった。
イギリスでは王政の補助機関として議会がはじまり、産業革命に伴う社会変動により、立憲君主制という政治形態とともに議会政治の原則が確立し、議会の多数派が内閣を組織し、内閣は議会に対して責任を持つという責任内閣制が定着した。その後5次にわたる選挙法の改正により、下院優先の原則が確立し、国民主権が定着した。イギリス憲法を構成する慣習法の一つに「国王は君臨すれども統治せず」国王の存在は儀礼的なものにとどまった。
ところが、長州藩中心にデザインされた新生日本は、時代の進化に逆行するもので、権力者が御しやすい国民を作るためのものであり、その硬直性により、民主主義の進化を強力にブロックすることとなった。やがて体制の矛盾が鬱積し、機能不全の状態となり、展望のない戦線拡大を図り、第二次世界大戦で大敗して、莫大な犠牲を払った後、漸く占領軍の圧力により国民主権の立憲民主主義が導入された。
明治十四年の政変前後に矢継ぎ早に導入された体制は次の通りであった。
明治日本で成立した国家体制 「国体
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「国体」(天皇を頂点とした国家体制)の成立
「軍人勅諭」(1882年)
「家族令」(貴族制度 1884年)
「大日本帝国憲法」(明治憲法 1889年 天皇に権力が集中)
「教育勅語」(教学の最高規範1890年 儒教主義の復活)
「廃仏毀釈」(1868年 神仏分離令、1870年 大教宣布) 明治十四年以前にスタートしたが、長い日本の精神的な文化を崩壊させるものであった。神道を絶対視させるためであろうが、神道そのものには哲学も教えもなく、仏教伝来より醸成してきた精神文化を崩壊さる行為であった。
長州藩は教育の精神を儒教に求め(教育勅語)、天皇を神格化し、その下で国民を団結させ、国民を皆兵化し、「富国強兵」を実現するための体制を整えた。国民は国家のために存在した。この様な体制は、「富国強兵」という目的達成のための手段であったが、やがて、手段そのものが目的となり、「国体」が最高の価値観となった。敗戦のときも最もこだわったのが「国体の護持」であった。
天皇の神格化と絶対権力の付与は長州藩による「天皇の政治利用」そのものであった。小説家坂口安吾の言葉を借りてみよう。「藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜するものが最も天皇を崇拝していた。彼らは真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、わが身の便利の道具とし、冒涜の限りをつくしていた。 …(中略)…軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民も又この奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰めの一幕が八月十五日となった。」(続堕落論 昭和20年12月発行)
長州藩の取った新体制は、イギリスで言えば17世紀の「王権神授説」であるが、日本の天皇の権限はより絶対的であった。君主が絶対的権力を持って国を支配する体制派は16世紀から18世紀のヨーロッパで、封建国家から近代国家へ移行する過渡期に出現した政治形態だ。近代日本の出発に古い体制をわざわざ持ち込んだのは明らかに時代遅れであったが、そこには薩長閥の「天皇の政治利用」という目論見があった。
明治日本で成立した国家体制の欠陥
明治の体制は、明治の元勲が健在な頃は機能していたと思われるが、昭和になるにつれて、制度の欠陥が露呈することとなった。それは、リーダーとなるべき人材の劣化で、昭和の初期になると、元勲の子孫たちが権力の場についたが、いずれも小物で明らかに人材の劣化が目立った(木戸幸一内大臣、寺内陸相、閑院宮等)。それは、明治以降布いた教育システムの結果であった。明治維新の前後は正規の教育システムに乗らないで、リアリティーの現実の中で能力を淘汰させ、留学等によりの外に向かって見聞を広めた。明治中期以降になると、画一的な教育システムで、暗記秀才型のいわゆるエリートを量産したが、視野が狭く、状況変化に対する問題解決力に欠けていた。国のリーダーになるのには小粒過ぎた。
最高権力者である天皇に卓越した能力があり、有能な補佐群が存在し、情報が正しく伝わっている限りでは国体は機能するが、世襲制では常に「英傑」を得るのは厳しい条件であり、また、天皇を皇居で「籠の鳥」にする状態の環境では、情報不足・偏りが生じて、側近が多大の権力を持ち、機能不全に陥る。その欠点が顕在化したのは昭和初期であった。
また、天皇を元に直列的な支配構造のため、部門間のチェック・牽制機能が働かず、各権力の増大・腐敗、暴走を生む土壌となった。政治においても、軍事においても国家として統一的な政策、戦略が無く、バラバラであった。不祥事が生じても、天皇に任命権があり、自浄作用が働かなかった。
国民は国家のために存在することが規定されていて、国民がどのように窮乏しようとも、救済の意思と、救済の手立てはなく、デモクラシーなども押さえつけられて、民意を発現する道は閉ざされていた。一方、特権階級はわが世に春を謳歌し、政党は腐敗し、軍閥も腐敗していた。体制以前に精神的に堕落していた。
昭和初期においては、長州閥が依然として跋扈していて、日本の進む道をゆがめていた。(例 満州の三スケ、岸信介、松岡洋右、鮎川義介は同郷 岸と松岡は親戚、二・二六事件の寺内陸相と木戸幸太郎内大臣も長州 統制派をサポートした。日本は長州閥によって滅びたと言っても過言ではない。)
国体機能不全の要因
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天皇に広範な任命権があるため、天皇との窓口となる内大臣が絶大な権力を発揮した。国の運命を左右する人事を采配した。例えば、木戸幸一内大臣は実質的に天皇の任命権を代行したが、一貫して統制派(戦争推進者)を利するための人事を行った。東条軍事政権生みの親であったが、極東軍事裁判では米英親派の平和主義者を演じ、戦後を長く生き伸びた。他の長州閥の人材と同じく、ソ連を深く信頼していた。
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天皇に任命権があるため(国務大臣に)不祥事があっても罷免できず議会制による自浄作用が働かなかった。昭和初期は政治家による汚職事件のオンパレードであった。
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軍部は、天皇に統帥権があることを逆手にとり、勝手な行動に出た。例えば、関東軍参謀石原莞爾と永田軍事課長は「柳条湖事件」を引き起こし、満州事変の始まりを作った。現地外交官は「平和的交渉」を計ろうとするが、関東軍に「すでに統帥権の発動を見ている。それに口出しするのか」と阻まれている。関東軍は治外法権の場となった。
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変動する国際情勢と各国の謀略がうごめく中、世界恐慌、国内の経済低迷、困窮する国民という状況の中で、各部門を統合して対処していくことが困難であった。統一した国家戦略が存在せず、天皇を補佐する憲法外の機関として元老院があったが、名元勲の死と老齢化により、機能が弱まったといえる。元勲の子孫たちも小粒で、英傑ではなかった。
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人材教育に関しても、型に嵌めた教育が行われ、暗記秀才が跋扈し、広い視野や問題解決力を持った真のリーダーが生まれにくい環境になった。陸大を優秀な成績で出た将校が無能であったことは、ノモンハン事件でソ連の将校が日本軍を分析している通りである。「日本軍の下士官は強いが、高級将校は驚くほど無能である」(ソ連の分析将校)
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天皇が能動的に統治行為を行わない以上、権力が割拠し、意思決定の中枢を欠くことになった。昭和天皇が能動的に自己の意思を発揮したのは、二・二六事件のとき以外はなかった。
明治に成立した体制では、国民に主権はなく、天皇に権力が集中した。しかし、現実には天皇は能動的活動してかつオールマイティーであり得ず、結局、補佐する立場の人間が影響力を持ち、一部特権階級や特定のグループが権力を持つこととなった。
天皇ご親政により、漸次社会改革を行い、欧米との融和政策を進めていれば、敗戦という不幸を経験しなくても済んだのかもしれない。事実、二・二六事件が起きる前、秩父宮は、天皇におけるご親政を進言したが、口論になり以降しばらく口も聞かなかったという。人材が皆無ではなかった。皇道派将校(真崎甚三郎等)、近衛文麿、秩父宮等の人材を有用に活用せずに、天皇及び側近は抑える側に回った。
特に軍事に関しては天皇が統帥権を握り、議会が干渉できないため、かえって軍部の独走を許す結果となった。
各権力の増大と腐敗は、不満のマグマとなって堆積した。これが二・二六事件の底流にあった。国民主権のもとで、民主主義が正常に機能する体制では選挙により自浄作用が機能するものと思われるが、天皇の外形的権力は絶大で、それを操る特権階級、財閥、軍閥の跋扈、は真の国益を考えた政策、戦略の行使ができなかった。
安藤輝三大尉
甥 安藤 徳彰
二・二六事件に遺された現代へのメッセージ