昭和初期の日本においては、軍の陸大出身の幕僚のグループ中心の統制派と隊附将校を多く抱える皇道派、さらにコミュニストは社会を大改革しなければいけないという認識では同じであった。手段とする国家体制も類似する面もあったが、その目的においては真逆であった。一方、大正時代に盛り上がったデモクラシーは昭和初期の苦境の中で輝きと失ってしまった。第一次世界大戦による余裕も一部の富裕層を富ませるのみで、格差が広がった。政党も堕落した。そのうちに昭和の苦境が始まる。
a統制派(革新派・戦争推進派):
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永田鉄山、東条英機、梅津美治郎、辻正信、牟田口廉也などのクループ。 ほとんどが陸大出身の軍事エリートであった。また、帝大卒の新官僚もこれに加わった。実際はコミュニストや転向派なども加わり奇妙な集団を形成していた。暗記秀才エリートは包括的な判断、変化する状況に合わせた問題解決能力等において著しく劣っていた軍事バカであった。しかし、秀才として出世の道は生涯確保されていた。ノモンハン事件でソ連の分析将校は「日本軍の下士官は勇猛だ、しかし高級将校は驚くほど無能であった」と証言している。これは、日本型教育の欠点を表現している。この指摘は太平洋戦争全般にも見られた現象で、『失敗の本質』にも記されている。
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「すべてのもの(政治、経済、教育、文化)は軍に奉仕せよ」という(ヒットラーの軍事顧問ルーデンドルフの)総力戦をモデルにして、軍事独裁主義による覇権主義により、満州・中国その他を支配し、やがては米国・英国などとも対峙する戦略であった。戦争を続行するためには、中国や東南アジアの資源が必要であるとした。
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永田はドイツに視察に行きルーデンドルフの考えに心酔したが、何故第一次大戦でルーデンドルフの戦略でドイツが負けたかという肝心な分析は捨象していた。
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中国の実力を低く見積もっていた。二、三ヶ月で片がつくと考えていた。すべてにおいて相手の実力を安買いしていた。軍人としても無能集団であった。
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統制派は早い時期から隠密裏に『戦争指導計画書』を作成し、首領の永田斬殺のあとは、東条等がこの計画を忠実に実行した。計画は着々と実行された。
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計画実行に当たっては数々の謀略を駆使して、邪魔者(皇道派)を排除した。謀略は敵国に対して行うものであるのに内部(皇道派)に向けて行われた。
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親ソ的であり、ソ連を信頼していた。(日ソ不可侵条約)最後まで、ソ連の本質を見抜けなかった。木戸幸一内大臣においては『最後は天皇を満州にお連れして、ソ連を後ろの壁にして米英と戦う』とさえ言っていた。
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宮中派(木戸幸一内大臣、閑院の宮)は統制派と一体になって皇道派排除の人事を行ない、東条軍事内閣を成立させた。常に統制派側に立ち影響力を行使した。
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天皇の権威を利用するが、統制派は満州・中国においては治外法権的な拡張主義に走った。
b皇道派:
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真崎甚三郎、小畑敏四郎、荒木貞夫、真崎勝次、本庄繁、青年将校達
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昭和8年陸軍省と参謀本部の合同会議では、永田鉄山(統制派)と小畑敏四郎(皇道派)との間の意見対立は火を吐くような激しいものであった。
「中国一撃 -
を主張する永田に対し、小畑は次の様に反論している。
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ソ連一国を目標とする自衛すら、今日のところ困難が予想されるのに、さらに中国と全面的に戦うことは、わが国を極度に消耗するのみならず、短期間でその終結を期待することは至難。
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米国も黙っておらず、全面戦争になる恐れがある。
上記が皇道派に於ける見解であり、真崎甚三郎も「戦争は極力避けるべきである」との考えを持っていた.
この論争の後から、「真崎と荒木はソ連と戦争をしたがっている」という風評があちこちに流され、真崎が財界などから危険視されるようになったが、これは統制派の陰謀と思われる。 -
真崎大将も日露戦争に従軍して金鵄勲章を拝領したが、戦争の惨さを体験して、出家しようと迷ったこともある。
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真崎大将もドイツに視察に行ったが、何故ドイツが負けたのかを分析し、アメリカとは戦ってはいけないと肝に銘じた。
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真崎大将も小畑も教養人であった。真崎はニーチェやカントを読んだり、『西部戦線異状なし』(戦争の惨さを描写)を原文で読んだりして、思索を重ねた。
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真崎大将は、財界との癒着を嫌い、余り付き合わなかった。
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皇道派は戦線を拡大することに反対し、外交的手段で解決すべきと考えた。
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思想家としては北一輝(『日本改造法案』)や西田税がいた。皇道派首脳は、北の国家社会主義の考えは、結局ソ連と同じ体制であり、日本の国情に合わないと判断した。青年将校の中には「参考にはするが」程度の受け止め方が多かった。
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隊附青年将校達は、堕落腐敗した軍閥、財閥、政治家、宮中の奸臣を排除し、天皇のご親政により、維新の精神に立ち戻り、社会改革を行おうと試みた。侵略戦争による拡大主義は望まず、ソ連に対する防御を優先し、国内の農村等の困窮を救わなければ、皇軍の基本が失われると心配した。
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維新の大義を、国学的な発想に求める傾向があり、蹶起後の具体的な構想は敢えて作らず、御身心に待つとした。精神的に堕落した国家の現状を、リセットすることを願った。(「大義を明にし、人心を正さば、皇道あへて興起せざるを憂えん」藤田東湖)
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近衛文麿、秩父の宮も皇道派に理解があると分類してもよい。平成八年の読売、毎日に旧陸軍を痛烈に批判した秩父の宮の遺稿が発見された。「陸軍の参謀総長に皇族の閑院宮が就任したことで、陸軍ん首脳部の統率力の無さは最悪の段階に進んだ」(毎日)閑院宮は木戸とともに、常に皇道派に反対する立場であった。
青年将校の刑架前発言で安田優は「特権階級者の反省と自重を願うと記し、安藤輝三も家族宛に刑架の前夜、「特権階級は敵だ」と記している。当時の特権階級の腐敗が、国難と国民の窮乏の前に如何に酷かったか、青年将校の怒りが伝わってくる。
c社会主義・共産主義:
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インテリの中には社会主義運動に身を投じるものが多かった。治安維持法により逮捕され、表面的には転向するものが多かった。天皇制のもとではすぐに社会革命は起こせないと考えた。また、統制派の計画立案に際しても、ブレーンとして関わるものもいて、統制派の理想とする全体主義は、ソビエトの体制と類似のものがあり、戦争の行きつく先には「社会改革」があると考えた。日本がとことん壊れない限り、日本は変わらないとも考えた。
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近衛文麿元首相は昭和20年2月14日、天皇に対しての上奏文を出した。この中では、「特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に御座候。(中略)これを取り巻く一部官僚及び民間有志は意識的に共産革命まで引きずらむとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に踊らされたりと見て、大過なしと存候、(中略)もし、是一味が一掃せらるるときは、軍部の相貌は一変し、英米及び重慶の空気、或いは緩和するに非ざるか、」。この上奏文に関わった吉田茂ほか数名を、木戸幸一内大臣は逮捕させた。
dデモクラシー
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福沢諭吉は儒教思想を否定し、近代的な政治思想、民主主義が人類進化の道であると考え、主権者となるべき自覚ある個人の改革を主張した。それが独立・自尊であった。ところが長州閥による時代と逆流する国家作りがなされ、しかも、その枠組みが天皇中心で硬直的であり、権力者の暴走・堕落を浄化できないため、大正時代の盛り上がったデモクラシーも昭和初期の困難な時期、押さえつけられてしまったものと思われる。
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宮中派を始め権力中枢は、欧米の民主主義よりも、ドイツやソビエトの中央集権国家の方が日本の国体と親和性があると考えていた。民主主義の進展を嫌っていた。
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政党政治家は党利党略、財界(三井、三菱)の意を伺うことに競々として政争に明け暮れた。
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本来ならば、国体の下でのデモクラシーの前進を目指し、国家像を示すべきであった。政治家の堕落も、日本敗戦の遠因となった。第一次大戦で得た利得も貧富の差を増すだけであり、社会の矛盾は蓄積していった。
e現状維持派
上記のほかに、現状維持を望む勢力が大半であった。軍部でも老齢の将軍等。財界や昭和天皇も基本的にはそうだろう。
主要者の人物比較
皇道派真崎甚三郎大将⇔統制派永田鉄山中将
真崎甚三郎大将:日露戦争で金鵄勲章を受章。戦争の惨さを体験し、帰国後出家を考えるほど悩んだ。ドイツに学びに行き第一次世界大戦後の様子を見てきたが、「敗者としてのドイツの原因を分析した」。ドイツはもともと世界を相手にできるほど資源はなく、アメリカの参戦により戦況が一変した。
真崎が財界との交際等、俗に交わらぬことから、皇道派の青年将校の期待を集めた。国家社会主義については、日本の国情に合わぬものとして、「天皇を中心として、有機的な、調和にある社会の実現」を目指した。その中で、改革を進めていくことが「調和」であった。この論理からして、イギリス型の統治も、今日の「象徴的存在」も調和の一形態と言っていいだろう。カントやニーチェについて学んだり、「西部戦線異状なし」を原文でよんだり、軍人でありながら思索家でもあった。真崎甚三郎の危惧はその後ことごとく的中した。皇道派の考えは柔軟で、「武力戦だけが戦争ではない」と考え、真の意味での総力戦がわかっていた。
真崎大将は日本を滅ぼしたものが、「重臣の無智とともに政党財閥」の腐敗挙げている。昭和十年十月、真崎甚三郎大将が国政改造についてまとめた意見書がある。「現時、我国第一の基調は、外交上にていはゆる乗りかけたる船を堂々川岸に安着せしむるにあるべし、(中略)これを戦争に求めざるを理想とす。否、今日世界が大戦争の惨禍に懲りある秋、我が独り好戦的な態度に出て、全世界を挙げて敵となしつつ孤立せる戦争の参加をわが国家国民に負担せしむるは、必ずしも策の得なるものに非ず」、世界赤化の理想への邁進は「真におそるべきもの」とし、日本の腐敗を「敵国はひそかに喜んでいる。」、「実質的に力のある協力内閣を組織し、文武一致した新内閣の出現を望んでいる」(「意見書」抄訳)
永田鉄山:永田は陸大飛び切りの秀才であった。真崎と同じくドイツに学びに行くが、真崎とは対照的に、ドイツ帝国のヒンデンブルグ参謀長ルーデンドルフ参謀長の国家総動員体制に感銘した。つまり、軍部支配による一党独裁体制である。何故ドイツが負けたのかという原因については注力しなかった。昭和8年の陸軍と参謀本部の合同会議では皇道派の小畑と永田の間で激しい論戦が繰り広げられたが、軍務局長に就任すると、その立場を利用して統制派の組織作りをした。また、「戦争計画書」を隠密裏に作成して、その通り実行した。目的達成のために、真崎甚三郎を脱落させること、青年将校に対しては、「行動」を起こさせ、一網打尽にすることとした。そのために数々の謀略を用いた。統制派は国府津に集まり、真崎追放の謀議をした。配下の辻正信を使い、士官学校事件をでっち上げ、監督不十分の理由で、教育総監の真崎甚三郎を更迭し、予備役に落とした事件で、相沢中佐に殺された。永田の死後、東条等がその方針を引き継いだ。
近衛文麿首相⇔木戸幸一内大臣
近衛も木戸も同じ京都大学に進み、社会学者河上肇に学んだ。近衛家三摂家の一つで、木戸幸一は木戸孝允の甥である。近衛文麿は三度首相を拝命し、戦争回避に努めたが、木戸を中心とする宮中派に阻まれ実現しなかった。(昭和17年には近衛は皇道派復帰の手はじめとして真崎を内閣参議に推薦するも、木戸は強力に反対)戦争終結の手段とした皇道派の復権を願ったが叶わなかった。最後の手段として、昭和20年2月に天皇に上奏文を謹呈し、内部の左翼分子の放逐を願うも、終戦まではそれから半年かかった。
戦争末期に於ける木戸幸一の言「共産主義というが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義でないか。欧州もしかり、支那もしかり、残るは米国位のものではないか」「結局皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることとなるのではないか」(宗像久敬日記より)
戦争裁判では、木戸は平和主義者を装い、死刑を免れ、87歳の天寿を全うしている。方や、近衛は自死した。
日本の選択
a,b,c,d,eの五つの選択のどれが正しかったのであろうか。
シミュレーションしてみよう。
a 統制派の場合:実際日本はこちらを選択したのだが、日本が南下政策を取ったことでソ連は安心して兵力をドイツ向けることができた。それにより、ドイツのソ連攻略は失敗した。ドイツの足を最大に引っ張ったのは日本であった。日本が長いこと蒋介石と戦ってくれたので、中国共産党は政権を取ることができた。関東軍が残した武器が役に立った。ソ連は日ソ不可侵条約を破り、日本が死に体になってから日本の領土を手に入れた。関東軍は国民を守ることもせず撤退。満州・南樺太では日本女性の裸体死体が散乱し、ソ連軍のトラックで女子学生たちが連れ去られる場面もあった。岐阜黒川の満州開拓団では、独身女性をソ連軍に差し出したことは近年明らかになった。大勢の青年たちがシベリアに抑留された。8月18日には北海道を占拠する勢いで大群がせめて来た。これを防いだのは、大本営の命令に背いて防衛した樋口中将の英断であった。ソ連の計画は北海道占領であった。
結局、戦火拡大によってもたらされたものは、皇道派が懸念した通りの展開になって終結した。何故統制派秀才集団が見通せなかったのか、これが日本型人材の弱点である。「失敗の本質」が変わらなければ、失敗は繰り返される。
b皇道派の場合:アメリカとの戦争は極力避けたであろう。真崎大将も戦争は避け、外交的手段にての緊張緩和の道を取ったであろう。アメリカは世界大戦に参加しなかった可能性が高い。そうすれば、ドイツとソ連はとことん戦争し、互いに消耗し、消滅したことだろう。日本は満州の権益を独占せず敢えてアメリカと組めば、防共布陣が出来、蒋介石が政権を維持したであろう。日露戦争が終わった時点から、今度は逆に、日本が中国の権益を独占するのではないかとの警戒が強くなり、日本が孤立していく。第一次大戦のとき、日本の参戦を欧米が拒んだのもその事情であった。日本もこの時点から、世界戦略を練らなくてはいけなかった。ルーズベルト一家は中国の利権とも関わっていた。
二・二六事件を契機に、日本が侵略戦争でなく、外交による解決、国内改革、民主化への制度改革への道を取れば、日本はそのまま大国になれた。正に、天皇の英断の問題である。天皇は二・二六事件のとき何を恐れたのであろうか。天皇が自らの意思で断固意思表示をしたのはこのときだけで無かったろうか。
国の存亡は、良きパートナーと組むことであり、ヒットラーのドイツもスターリンのソ連もならず者国家であり、これと組んだ日本もならずもの国家であった。人権や人命に対する配慮はみじんもなかった。
c社会主義の場合:日本がとことん壊れた場合は、社会主義による国家建設が行われたかもしれない。であるから、最終目標は異なっても途中までは統制派と一部マルキストは同じだったかもしれない。日本の国体は天皇を他の独裁者に変えるだけで、そのまま全体主義の社会主義国家が成り立つ。しかし、現実は共産主義であろうとドイツであろうとどこでも、いや日本でも、全体主義国家は人間性を奪い、体制を守るために大勢の人権が奪われ、殺される。また、計画経済は非効率であり、国家は衰退する。ソ連がその事例だ。中国は鄧小平のときから市場経済を導入し、計画経済と市場経済のハイブリットな体制を生み出した。成長分野に選択・投資し、人材投資、技術移転の促進などで、急成長しているが、人権意識ではやはり、全体主義国家であり遅れている。
d デモクラシー:本来はデモクラシーの進展により国民が幸せと実感できる国家ができあがる。これが福沢諭吉の描いたシナリオであった。
敗戦により期せずして人権、平和主義、国民主権を国家の最高価値としたが、国民は今、安易にそれを放棄しようとしている。やはり、封建社会から続いた、また明治十四年の政変から戻された儒教主義の国体、或いは戦後布かれた愚民化教育方針によって、物言わぬ羊に甘んじるのが居心地がよいのかわからない。デモクラシーは進化しなくてはならない。世界は激動する。今はグローバリゼーションと技術革新と格差拡大、それらがもたらした諸問題に直面している。環境問題のその一つである。既存の枠組みを死守しとどまっていては問題は悪化する。
e 現状維持を守っていても、社会矛盾により、社会は不安定し、いずれかの勢力により流動化したであろう。現状には留まれない状況であった。
日本もまた今、大きな選択を迫られているが、国民にその自覚はない。
安藤輝三大尉
甥 安藤 徳彰
二・二六事件に遺された現代へのメッセージ