政策施行において、官邸や総理大臣がイニシアティブを発揮するのは当然であり、好ましいことでもある。正当な意志がある限りそのプロセスを覆い隠す必要もない。特例に特例を重ね、異例に異例を重ねて支援することも必要であろう。経済においても、教育においてもこの30年、各国に追い越されて低迷して現状、総理の理念や将来のビジョンの下に、抜本的な改革が必要であるからだ。
しかし、「森友学園」、「加計学園」問題の実体はどうであろうか。
「森友学園」について安倍総理は「妻からとても良い教育をしていると聞いている」と答弁し、昭恵夫人も教育勅語を暗唱している幼児の姿に「目頭が熱くなった」とも表現している。
「教育勅語」とは
そもそも明治の天皇制国家と儒教主義教育は、国民を富国強兵の下でまとめていくための方策として政府が打ち出したもので、「教育勅語」は儒教教育主義の代表的なものだ。その本質は「臣民(家来である国民)は、もし、危急の事態が生じたら、正義心から勇気をもって公のために奉仕し、それによって永久に続く皇室の命運を助けるようにしなさい」と言うことであり、主権は国民にはなく、天皇に在った。その思想統制のおかげで、「万歳!」と叫んで疑問を持たずに命を捧げる兵士を大量生産できたのだ。事実、銃剣などによって突撃していく白兵戦が日本の戦法の主流であり、武器もなく、食料も配給さず、無数の若者が白兵戦で無駄死にしていった。
儒教主義、知識偏重の教育は、命を惜しまない若者を大量生産した一方、国の将来を託すに足る、真のリーダーを育成するのには適していなかった。幕末・明治維新に渡って多くの英傑を生み出したが、明示23年以降教育勅語のもとに育ったエリートは問題解決能力に乏しく、視野も狭窄であった。また、その教育は知識偏重であった。これが昭和になって、日本を破滅に導いた元凶であった。詳しくはhttps://子育てひろば.com/ (「失敗の本質」の本質~日本の教育~)に記述。
儒教主義は妻は夫に従い、子どもは両親に従い、目下は目上の者に従い、上司に従い、国民は天子に従い、という封建制度の秩序観を教えたものであり、国家統治のための精神的主柱であった。福澤諭吉は儒教を一つも評価していなかった。
安倍総理の「日本を取り戻す!」とは何か。安倍政権、自民党はどの様な国家に我々を引き戻そうとしているのか。安倍総理は経済の再生を約束して選挙に勝ち、実績とし、人権や平和主義を毀損する一連の法案を成立させ続けている。経済においては、付けを将来に回す、危険な掛けを行っている。
戦前回帰趣味
3月31日付けの官報で新教育要領を告示したが、中学校で習う武道について、「銃剣道」を加えた。驚くべきことだ。また、「森友学園」問題の最中政府は、「学校の教材として『教育勅語』を使うことも可なり」との見解を示した。日本のどこかの底流において、戦前回帰を望む潜在意識がうごめいている。国民はこの動きを意識しなければ危険な方向に国は流れる。
明治十四年の政変について思い起こしてみよう。
「加計問題」で思い起こすのは「明治十四年の政変」である。福澤諭吉、大隈重信や民権運動家が目指した近代的国家と、天皇を神格化し、その下で全体主義的な国家の建設を目指す薩摩・長州派との路線の対立があった。また、政変の背後には権力の乱用を巡る抗争があった。
薩摩閥の開拓使長官黒田清輝が同郷の政商五代友厚に破格の安値で官有物の払下げを行うことがマスコミのスクープで明るみに出て、大蔵省内の大隈派が「不当な廉価」であるとして反対した。また、政府への強い批判が起こり自由民権運動が一層の盛り上がりを見せた。この事件を契機に薩摩と長州が組み、大隈重信とそのブレーンの福澤諭吉の門下生を政府から大量追放した政治事件である。
権力と癒着は付き物である。例えば、井上馨(長州)も三井財閥や長州系の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やしたとされている。
明治十四年の政変により、イギリス型の議員内閣制の憲法を押す大隈重信と慶應義塾門下生が政府から追放され、君主大権を残すプロシア憲法が大日本帝国憲法(明治憲法)の原型として採択されるようになる。
「加計問題」は安倍首相の親衛隊・盟友である加計学園に対しての破格の便宜を図った。これは戦前の日本の構図そのものである。増大する国家権力、癒着や政商、特権階級跋扈の反面、一般の国民は貧困に喘いでいた。226事件の蹶起趣意書によると「私利私欲にまみれた不逞のヤカラが政財界を牛耳り、民衆の生活を塗炭の苦しみに追い詰めている」と国家社会主義革命の趣旨を表現している。
この30年間の日本の停滞は偶然ではない。一言で言うならば、政府の無為無策によるものである。日本はこの30年に様々な国に追い越されている。
1980年代から世界は
①グローバリゼーション
②第四次産業革命
の潮流が急速に生じてきた。また、新潮流の実行主体である国民に対する「教育改革」が各国で行われてきた。例えば、韓国は空港や港湾の整備、IT産業の大幅な助成を行ったが、同時に金大中は「これからは英語教育が大切である」という大演説を行い、1990年から小学校3年生から、首都部においては小学校1年生から、本格的な英語教育を始めた。中国でも同様であった。
日本においてはこの間何の対策も行われず、沈滞の30年を迎えている。政権には未来のビジョンがないのだ。憲法を改正しても、経済は再生しない。経済の主体が国民である以上、「教育改革」がなければ経済成長はあり得ない。教育は20年、30年先を見据えて行うものである。30年先に世界がどうなっているか、そのためには今どの様な教育をしなければいけないのか、政府には、明確なビジョンがあるのだろうか。
子どもたちに未来に羽ばたく能力を与えるために、英語教育+IT教育は不可欠なものだ。そのための特例に次ぐ特例、異例に次ぐ異例ならば救われる。未来を見据えた教育改革なくして日本の再生はあり得ない。
「森友問題」「加計問題」は、このままでは日本には未来が無いということの象徴である。各国には戦略がある。それは政府に未来のビジョンがあるからだ。例えば、中国では、AI部門に多大な投資をしている。そのためのスーパーコンピューターでも日本を凌いでいる。人材教育も同様である。日本はどうであろうか。比べようも無いありさまだ。
日本の唯一の得意技である自動車産業を取ってみても、自動車の分野で、中国は日本を締め出そうとしている。電気自動車の国際競争力は中国がトップであり、2018年から新エネルギー車の販売を義務づける予定だが、これには日本が得意とするハイブリッド車は含まれていない。
10年後20年後の未来を、シナリオライティングすると、年金も破綻し、国民は付加価値の高い職業に就けず、日本は二等国になっている。今、まだ少し体力が残っているうちに、「教育改革」、成長部門への集中投資、規制の撤廃などを断行しなくては間に合わない。
そのため、政治が変わらなくては始まらない。それは、日本人の選択の問題でもある。
2017年7月13日
安藤 徳彰